プロレス総選挙が生んだオカダとの初対面 猪木と新日本の雪解け/前
2017年6月から2022年7月までの5年間にアントニオ猪木マネージャーを務めた甘井もとゆき氏がツイッター(@motoyukiamai)で猪木関連秘話を公開している。ファン注目の話題に切り込んでおり、追悼の気持ちを込めつつ複数回にわたって「闘魂同行記」としてご紹介していく(引用による記事作成は甘井氏にもご許可いただいております)。
2017年時点で根強い猪木アレルギーが残っていた新日本プロレス。いかにして“回帰”が実現したかを全3回で取り上げる。
前 プロレス総選挙が生んだオカダとの初対面 猪木と新日本の雪解け/前
中 叶わなかった北村克哉「INOKI ISM」大会参戦 猪木と新日本の雪解け/中
後 「猪木」発言のオカダと甘井氏がこじ開けた 猪木と新日本の雪解け/後
楽屋に多くのプロレスラーが挨拶に詰め掛け、猪木「別日に食事会をしよう」
2017年、猪木会長はテレ朝の「プロレス総選挙」という番組に出演し、1位に輝きました。
この時には楽屋に多くのプロレスラーが挨拶に詰め掛け、準備の都合上、挨拶出来ない方も居りました。会長はこれを気にして、「別日に食事会をしよう」とおっしゃってくれました。因みにこの時に pic.twitter.com/HKfKeoaOaI— motoyukiamai (@motoyukiamai) October 18, 2022
2017年、猪木会長はテレ朝の「プロレス総選挙」という番組に出演し、1位に輝きました。
この時には楽屋に多くのプロレスラーが挨拶に詰め掛け、準備の都合上、挨拶出来ない方も居りました。会長はこれを気にして、「別日に食事会をしよう」とおっしゃってくれました。因みにこの時に会長とオカダカズチカ選手は初対面でした。
2017年6月13日(火曜日)、テレ朝ワールドプロレスリングに20年携わった松本仁司局次長のご協力を得て、新日本以外の団体からも参加者が集まり、猪木会長の私的な食事会という事ですが、座席表のような凄いメンバーが揃いました。この食事会はテレ朝から一切の撮影禁止と言われてましたので、記録が残っていません。
もう少し交渉して記念写真だけでも残せておいたら良かったなぁ、と今でも思います。また、ワープロの海谷善之様が新型コロナで亡くなられたのも残念です。
色々な方と歓談する為に、猪木会長は時間毎にテーブルを移る段取りでした。
2番目のテーブルに移った際に、私が席を空け、そこに4代目タイガーマスク選手がずれて、オカダカズチカ選手の横に猪木会長がお座りになる段取りでしたが、前田さんが酔っ払って、強引に猪木会長とオカダ選手の間に割って入られました。それはそれで、猪木会長、前田さん、オカダ選手という絶対に実現しないであろう3ショットが見れたのは面白かったです。
この食事会は一部マスコミで報じられましたので知っている方も居るかと思います。が、本当に一枚の写真も残っていません。参加者の記憶の中だけにある素晴らしい思い出です。
カール・ゴッチ納骨式により、猪木が十数年ぶりワールドプロレスリング登場
「カール・ゴッチ没後10周年 INOKI ISM」の成功によって、カール・ゴッチ先生のお墓を建立する為の資金が貯まりました。こうした歴史的な出来事に携わらせて頂き、猪木会長、西村修さんに深く感謝しております。
2017年7月28日の納骨式の法要では、私は何度も言ってますが、小林和朋さんの撮られた pic.twitter.com/m4d105lIRZ— motoyukiamai (@motoyukiamai) October 18, 2022
「カール・ゴッチ没後10周年 INOKI ISM」の成功によって、カール・ゴッチ先生のお墓を建立する為の資金が貯まりました。こうした歴史的な出来事に携わらせて頂き、猪木会長、西村修さんに深く感謝しております。
2017年7月28日の納骨式の法要では、私は何度も言ってますが、小林和朋さんの撮られた猪木会長、藤原組長、前田日明さんのこの3ショットは最高過ぎます。
納骨後に、ゴッチ先生に献杯の後、前田日明さんが、西村修さんの肩を何度も叩きながら、「西村、ありがとう、ありがとう」と述べられてました。西村さんも感極まってました。
猪木会長、藤原組長、木戸修さん、前田日明さん、西村修さん、と脈々と続くゴッチイズム。このような場に立ち会えて幸せでした。また、普段なら絶対に実現しないジョー・マレンコさんとノブ ハヤシの2ショットも撮れて良かったです。
そして、余談ながら、これは必ず言っておきたいです。この納骨式を、当時のテレビ朝日、ワールドプロレスリング櫻井健介プロデューサーが、自らテレビカメラ持参で撮影され、その映像は猪木会長の十数年ぶりのワープロ登場映像になっております。
ここから猪木会長とテレ朝の関係も雪解けとなって行きます。これこそ私が一番望んだ事でした。理解して全ての蟠りを流してくれた猪木会長に感謝しております。
テレビ朝日番組、そしてカール・ゴッチ逝去が猪木と新日本側の再接近をもたらす
ここからはカクトウログによる補足。
いやはや2017年3月12日のテレビ朝日『プロレス総選挙』が懐かしい。関連ツイートから。
ブログ更新:収録風景も一部明らかに! 12日(日)テレ朝「プロレス総選挙」直前情報/投票できなかったファンのためのネット版「プロレス総選挙」24時まで受付 https://t.co/wY3egYT8ZP #プロレス総選挙 pic.twitter.com/bVW04Gwe4Q
— KAKUTOLOG📶プロレス/ボクシング/MMA/格闘技カクトウログ (@kakutolog) March 12, 2017
まさかのプロレス総選挙待ちのまま、大阪カウント2.99で日付超え pic.twitter.com/J0hlINbZUz
— KAKUTOLOG📶プロレス/ボクシング/MMA/格闘技カクトウログ (@kakutolog) March 12, 2017
ブログ更新:“ゴールデン放映”はかなわずも、テレ朝版「プロレス総選挙」は感動場面続出/1938人投票によるネット版ランキングと比較してみる https://t.co/yZSGAvHGgu #プロレス総選挙 pic.twitter.com/PPDeGiYiu7
— KAKUTOLOG📶プロレス/ボクシング/MMA/格闘技カクトウログ (@kakutolog) March 13, 2017
当初はゴールデン2時間というフレコミの番組が、WBC中継延長によりなんと日付変更しての開始となる。“ゴールデン復活”とファン間で煽ってきたものだが、この展開には「呪われているのか!?」とも思ったものだ。
それでいて、このテレビ朝日番組、そしてカール・ゴッチ逝去が猪木と新日本側の再接近をもたらしているから運命的でもある。これで順風満帆で回帰となると思いきや、そう簡単にはいかなかった。(「猪木と新日本の雪解け/中」へと続く)
《猪木と新日本プロレスの関係》
国会議員としての最初の任期を1995年で終えた猪木は、1996年に「世界格闘技連合」を発足させる。1998年4月には「U.F.O.(世界格闘技連盟)」へ名称を変更。自身はレスラー生活を引退した。
このU.F.O.を母体としながら、猪木は新日本プロレスとの対抗戦などを行う。いわゆる猪木の介入(U.F.O.陣営には小川直也らが入る)となったが、プロレスと総合格闘技が枝分かれした時代ではファンの反応が芳しくなく、むしろ路線混迷が信頼失墜につながってしまう。1990年代後半の新日本はnWo JAPANが一大ムーブメントを起こしていた時期でもあり、坂口征二・長州力体制との対立がエスカレートした。
1999年1月4日には新日本東京ドーム大会で橋本真也と小川直也が無効試合(橋本が実質敗戦)。2001年にはG1覇者・永田裕志が大晦日「INOKI BOM-BA-YE」でミルコ・クロコップにKO負け。2002年には新日本を退団した武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンが全日本に移籍。2000年代は暗黒時代とされ、2005年1月4日の東京ドーム大会では「アルティメット・ロワイヤル(総合格闘技のバトルロイヤル)」が開催され混迷を極める。
業績悪化もあり2005年、猪木は自身の持つ新日本株をユークスに売却する。事実上、新日本の経営から身を引いた。
2007年、新日本プロレス道場にあった猪木パネルが外された。これは棚橋弘至が外したともされたが、実際には他の選手が外したという話もある。一方、2019年の台風直撃後の道場清掃の際に猪木パネルが廃棄されそうになるが、棚橋が清掃局まで足を運んで救出するというトピックスがあった。
2020年1月の獣神サンダー・ライガー引退セレモニーにてアントニオ猪木がVTR挨拶で登場。“約14年ぶりの新日本登場”とされた。同年7月にはスポーツ誌「Number」にてオカダ・カズチカとの対談が実現している。
新日本50周年イヤーとなった2022年1月4日には、猪木がビジョンで挨拶。10月1日に猪木は永眠。新日本プロレスは永眠後、猪木が終身名誉会長9月就任を承諾していたことを発表した。
なお、当時の状況を蝶野正洋は次のように証言している。
新日本は2日間でプロレス史上最多記録の34万人を動員した北朝鮮大会があった95年が最も観客動員が多く、そこから4大ドームツアーなどを行っていた02年ぐらいまでが絶頂期だったと言える。だけど、内部では次第に不協和音が大きくなっていた。
当初は現場監督の長州力さんが進めたUWFインターナショナルとの対抗戦などの国内路線、マサ斎藤さんによるアメリカのWCW路線、実質的オーナーだったアントニオ猪木さんによる北朝鮮などのアジア路線が、それぞれきれいな形で進んでいた。ドームツアーも当たり前でカードが余るぐらい。だけど、各路線が競争する中、だんだんと猪木さんは中心にいないと気が済まなくなってしまった。
長州さん、マサさんらが、もう猪木さんが中心じゃないですよ、自分らでできますよとなって、猪木さんは、お前らふざけるなよと。そういうのが積み重なって、カードをつぶし合うような悪い流れになってしまった。そこに手を伸ばしてきたのがK-1やPRIDEなどの格闘技。アントニオ猪木を上手にアントニオ猪木として扱い、外部から新日本を切り崩してきた。
新日本の選手は猪木さんによって相手のリングに上げられ、ダメージを受けた。第三世代と言われる自分ら闘魂三銃士の下の世代にはいい選手がそろっていたけども、猪木さんに声をかけられて、三銃士ならブロックできても、若い彼らは自分で判断できなかった。永田選手なんて、1日か2日前かに出ろと言われて出て、負けてしまった(01年12月31日・INOKI BOM-BA-YEでのミルコ・クロコップ戦)。そんなむちゃくちゃな交渉が会社で行われていたから、内部に不信感が募っていったんだ。
そして、武藤さんと長州さんが02年に離脱。翌年5月の東京ドーム大会は、ここで新日本が飛んでしまうんじゃないかというピンチだったけども、ノアとの提携などで5万人ぐらい動員することができた。新日本の選手・フロントは離脱に次ぐ離脱で手薄の状態だったけども、長年ドーム大会で培ったいろいろな相手と絡んで何かを作り上げていく手法があったから、その後も何とか延命できていた感じだった。
(2019.03.25 “新日本暗黒時代”は何が原因だったのか/蝶野コラム/リング/デイリースポーツ online)