田中正悟さんが亡くなっていた 高校時代の前田日明が空手で弟子入り
前田日明の空手道場時代の先輩であり、前田のプロレス入りなどで重要な役割を果たした田中正悟さんが亡くなった。
4日に公開されたYouTube動画で前田日明と水道橋博士が明かす
4日に公開されたYouTube動画『水道橋博士の異常な対談 〜Dr.Strangetalk〜』の中で、前田日明と水道橋博士が明かした。
9:52あたり。2021年8月に亡くなっていた点だけが話題になり、死因などには触れられていない。前田より1つ年下であり、62歳で亡くなったことになる。
この訃報については、2021年の前田出演トークイベントでも明かされていた。そこでは死因にも触れられていた。
高校2年生だった前田少年、一つ下の田中さんに空手で弟子入り
[1988年12月1日発売! 混迷し、混沌の渦中に堕ちた日本プロレス界に、燦爛たる旋風を巻き起したひとりの男、前田日明。既成のプロレスに大いなる疑問を投じ、真の格闘技とは何かを問い、それを追い求めて義戦せんと再興したUWFを率いて、前田は野望と夢の淵をひた疾る―。人気と実力の頂点に立ち、古代格闘技の現代への復権と実践とを熱く渇望する前田が、今ここに初めて書き下ろす秘録の自叙伝。生い立ちから現在までの未公開写真を満載して全てのプロレス・ファンに捧ぐ]
高校2年生だった前田少年が友人に「オレの後輩にお前よりももっと強いやつがいてる」と引き合わされたのが田中さん(前田よりもひとつ下)だった。前田は喧嘩を仕掛けるも田中さんがボコボコに。これを受けて前田が田中さんに弟子入りというところから関係が始まる。2人で喧嘩に明け暮れたが、行動を共にすることで前田は田中さんから大きな影響を受ける。
前田の将来を案じていた田中さんは、前田がプロレス入りできるよう「ベニー・ユキーデへの挑戦を新間さん(新日本プロレスの新間寿氏)に頼んでみよう」と動く。前田は1977年に上京、1978年8月に山本小鉄戦でプロレスデビューした。
前田が1988年に旗揚げした第2次UWFがブームとなり、同時期に田中さんは大阪でチェーン店(中華料理の西遊記)オーナーとして成功。前田の代表的著書『パワー・オブ・ドリーム』では、そこまでの物語が描かれている。
前田が聞いた「案件あるたびにカネを要求」。音信不通時期も
一方でファンには『パワー・オブ・ドリーム』には描かれなかった一面も有名。後見人のように振る舞いながら、新日本プロレスの間に入ってカネを受け取っていたともされる。
前田「倍賞(倍賞鉄夫)さんに言ったら、『ずっと前から前田には言わんといけないと思ってたけど、田中正悟はホントダメだよ、ワルだよ。なんでかって言うと、新日本プロレスとの(第1次UWF崩壊後でUWF勢が新日本にリターンした)業務提供時代に選手に内緒ということで、マネジメント契約を結んで毎月手取りで200万取った』と。『なんか案件あるたびに追加で要求して、えらいカネ取ってるよ』って。本当ですかと。
その契約書とか支払書とかコピーもらえますかってもらって、田中正悟に『なんですかこれは』と。それと(UWFが新日本に行くときの支度金として出た)2千何百万も(浦田さんに)払ってないみたいじゃないですか。そしたら『これは誰かオレを陥れようとしている』。それで倍賞さんのコピーを見せたら『こんな話はあり得ない』。それでこんど倍賞さんと浦田さん呼んで話しますかって言ったら、『オレはいつでも話する』って言って、南平台の事務所で話をして、そこで別れて彼が大阪帰ってから音信不通ですよ」
(2017.06.11 前田「これはドキュメンタリーじゃないよ!」~発売から3か月、ついに『1984年のUWF』を読んで大激怒【週刊 前田日明】: プロレス/格闘技 カクトウログ)
中継において田中さんが解説席に座るなど、リングス設立の1991年以降においても前田と田中さんの関係は継続していた。ところが上記のくだりで過去の経緯を新日本関係者からも確認したことから、両者は絶縁となっていた。
メディアやトークイベントでは「T」と伏せられることもあったが、格闘王の物語とともに存在した男だった。田中さんとの関係を前田格闘ストーリーの絶頂と被せて思い起こすファンも多い。ご冥福をお祈りいたします。