揉めるんだったらオレが揉めればいい 第1次UWFの記憶【週刊 前田日明】
前田日明が足りない世の中に、とことん前田日明を発信してみる。前田日明関連の動きをできる限りカクトウログが追う「週刊 前田日明」連載第210回をエントリーします。
※不定期連載となっています。
14日、シャイニング主催の「『激論CLIMAX 2021 青山如月の陣』前田日明vs.山崎一夫」が青山 LA COLLEZIONEにて行われ、ファン70人が集結した。トークの一部をカクトウログ名物のメモ書きから振り返る。
山崎と初対面で事件 前田「オレと勝負するかアイツら返すかどっちかにせぇ!!」
2人の出発点は、新日本プロレスでの道場生活になる。「道場の出待ち女性ファンの前に、先輩レスラーが“ライガーの中の人”をスッポンポンにして放り出してた」など思い出話がヒートする。それでも山崎によると「前田さんはときどきイタヅラをするくらい」と、後輩イジメのようなものはなかったという。
山崎「前田さんがコワイって思う人ーーーっ!? 大丈夫です、コワくないですから」。
話は2人の初対面に遡る。
前田「(入門前の)山ちゃんが道場のリングでプロレスごっこをバタバタしてて」。
山崎「これまでの関係者でいっても、道場の一番近くに住んでいたのがボク。覗いてたら、小林邦昭さんがボクを道場に入れてくれたことがあった。高校生時代にプロレスラーを目指すようになって、バーベルで130キロ上げれるようになりました。昼休みにずっと筋トレをしてたんで」。
前田「連れと一緒にリングを使っていたから『オレと勝負するかアイツら返すかどっちかにせぇ!!』ってね」。
世の中に出回っている初代タイガーサイン色紙 3分の1は山崎の代筆説
山崎は初代タイガーマスク(佐山聡、1981~1983年)の付き人を務めた。当時のタイガーは人気絶頂。
山崎「2日に1回はサイン会がありました。1回で30~50万、佐山さんにいくんです。司会のケロさん(田中秀和リングアナ)と自分がついていくんですが、準備で『はい山ちゃん』『はいケロちゃん』と色紙の山を3分の1ずつ渡される。世の中に出回っている初代タイガーのサイン色紙の3分の1はボクです(笑)。あとで佐山さんから1万ずついただいて」。
前田「猪木さん(アントニオ猪木)も巡業に行くたび、1大会で100枚書いてたね。それも『闘魂』まで1枚1枚書いてて。『闘魂』入りの方が価値があるんだよね。藤波さん(藤波辰爾、当時・辰巳)は書けたらしいけど、自分はやったことないですね」。
山崎「営業の人が書いていたという話も聞いたことがありますね」。
キック用レガース開発秘話 素材はダイビング用ウェットスーツにたどり着く
タイガージムやUWFによって始まったキック用レガースの開発の話に。
山崎「拳にグローブをつけるようにスネにもつけるものを。そういう考えで佐山さんの号令で考えましたね。いろいろ試して佐山さんから『山ちゃん、これはどうかな』と相談されながら。素材を探しているうちにダイビングするときのウェットスーツにたどり着いたんです。スネ側にちょっとアンコ(クッション)を入れて。『UWF無限大記念日』(第1次UWF、1984年7月)でボクが第1試合で、初めて付けましたね。だから、最初の男がボク」。
第1次UWFの新日提携時代 山崎「交渉事は前田さんが苦労された。ボクらを守るために」
前田らが新日本から出て設立された第1次UWFは団体としては立ち行かなくなり、新日本にリターン。ただ、個人契約ではなく団体同士の契約として前田が舵取りをすることになる。
山崎「ボクらはリングに上がるだけ。交渉事は前田さんが苦労された。ボクらを守るために」。
前田「(どうせ誰かが矢面に立って)揉めるんだったらオレが揉めればいい。みんなには思いっきりプロレスをやってほしかった」。
山崎「前田さん、当時いくつですか?」。
前田「26くらい?(カクトウログ註:実際に両国国技館で「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」と宣戦布告したのは26歳時)」。
山崎「ボクと4つ違いなんですが・・・ここまでできます、みなさん!!」。
前田「商品販売権も確保してね。(スタッフの)神と鈴木を食わさないといけなかった。ポスターとかTシャツつくって、ポスターにサインして、道場のちゃんこ費用が出せるように」。
山崎「ボクは今の26の若いレスラーに『できる!?』って言いたいです」。
前田「一人暮らしの経験もなかったんで『(やりくりするには)どうやったら!?』とすごく考えた」。
山崎「お金がなかったとき、ブタの貯金箱を割って、ボクと高田さん(高田延彦、当時・伸彦)を飲みに連れて行ってくれたり」。
前田vs.山崎で第2次UWF旗揚げ 山崎「この団体はこの試合で決まる・・・必死でした」
1988年5月12日、後楽園ホールで第2次UWFが旗揚げ。メインカードが前田vs.山崎だった。
山崎「高田さんとの試合を前田さんは温存されたんだと思います」。
前田「当時のカードは全部オレが決めてたね」。
山崎「ここ(旗揚げ戦)でコケたら・・・この団体はこの試合で決まると必死でした。プレッシャーが大きかった」。
前田「当時はね、受けるインタビュー、インタビューで(話題をつくろうと)まわりに喧嘩を売りまくったよ」。
山崎「道場でも必死で練習しました。なのに夜になると別のジムに行く。お互いが『何を(試合で)するんだろう』という緊張感がお客さんに伝わるわけで」。
第2次UWF旗揚げの前田挨拶 「選ばれし者の恍惚と不安、ふたつ我にあり」秘話
司会「UWFで印象に残っている大会というと?」。
前田「(第1次)無限大記念日、(第2次)旗揚げ、ドームかな」。
山崎「旗揚げですね」。
司会「『選ばれし者の恍惚と不安、ふたつ我にあり』と挨拶、これは考えていた?」
前田「ふと思いついたんだよね、この状況にピッタリだよなと。トークショーでも前もって(喋ることは)考えない。世代闘争でのマイク(1987年6月12日、両国国技館、長州の『お前らは噛みつかないのか!』など)のときも、みんなが何を喋っているかわからない。もういいやと思って(当初の流れを踏まえたものではなく)『どうせやるんだったら、世代闘争とか言わんと、誰が強いか決まるまでやればいいんだよ』って」。