【記憶の懸け橋】馬場さんは6人タッグ時間切れが一番とわかってた 全日本編
7月5日、『記憶の懸け橋』と題したトークイベントが巣鴨・闘道館で開催された。ソーシャルディスタンスを伴いながら会場に収容できるギリギリ、50人のファンが耳を傾ける。『夢の懸け橋』(1995年)から25周年であり、関係者との顔合わせは実に10パート、7時間に及ぶイベントとなった。
このようなイベントのシリーズ化につながる反響があればとのことで、「SNSでどんどん出してください」との案内もあった。トークには資料性も高く、一部ピックアップとはなるが当サイトで取り上げさせていただきたい。本稿では全日本編として、市瀬英俊氏(当時の全日本担当記者)、和田京平氏(全日本レフェリー)とのパートをお届けする。
※「全日本編・フリーランス編・後継者編・マスコミ編」を予定。
それより何より記憶の懸け橋のトークイベントにみんなが快く出演してくれたことに感謝の気持ちしかない。本当にありがとう。 pic.twitter.com/xwY9uSnUQu
— ターザン山本! (@tarzany) July 6, 2020
『夢の懸け橋』とは?
週刊プロレスの販売元であるベースボール・マガジン社が主催した東京ドームでのプロレス大会。1995年4月2日に行われ、全13団体が試合を提供した(交流戦・対抗戦はなし)。外野席までが埋まる超満員となり、主催者発表で6万人。前半に女子団体、後半に男子団体を振り分けつつ、団体設立が新しい順によるラインナップ。セミファイナルが全日本プロレス、メインが新日本プロレスとなった。
40万部とも60万部ともされた週刊プロレスの影響力は絶大だった。次々と各団体の出場が決まっていったが、同日に後楽園ホール大会を予定していたWARが「大会中止(売上はBBM社が補填)と東京ドーム参加」を打診されたことで大反発。ライバル誌の週刊ゴングはWAR側の支援にまわったほか、ほとんどのマスコミが“なかったこと”として『夢の懸け橋』大会を報じなかった。
大会に至るプロセスで週プロの独裁色にスポットを当てられたことも作用したのか。メイン後にリングに立った週プロ・ターザン山本編集長に、なんとブーイングが発生する。大会以降、週プロの独自路線とファン・団体の間の乖離が広がり、1996年2月の新日本による取材拒否、販売部数大幅減、6月の編集長退任へとつながっていく。『夢の懸け橋』は無情にも、週プロ黄金時代終焉への扉を開いた。
25年前の『夢の架け橋』東京ドーム大会が私にとっていかに終わりの始まりだったかをしつこくかつ執拗に語りました。完全な敗北宣言でした。あそこから転落への道が用意されていた。
— ターザン山本! (@tarzany) July 6, 2020
ターザン山本 独白
山本 この大会はね、自分にとっては『悪魔の懸け橋』なんですよ。ベースボール・マガジン社は東京ドームに固定席を持っているんだけど、ドームから「4月2日空いてるんですけど、やったらどうですか」と言われたのが経緯。社長は「はい、わかりました」と。役員は“週プロが売れているからできる”と思ってるんだけど、何の知識もない。ボクはね、2回反対しましたよっ!!
『夢の懸け橋』というタイトルを考えたのはボクですよ。プロレスというのは持ちつ持たれつの中で対立構造があることがジャンル繁栄のコツ。未来に向けてデザインできないかと考えたのが『夢の懸け橋』なんです。
ところが、1995年の(ライバル誌の週刊)ゴングの年始号(1月19日号)表紙にも『夢の掛橋』と出てた。初めて被ってしまったことで、ターザン山本は終わったと思ったね。
【ここで高木三四郎からの応援メッセージ動画が上映される。「もう1回、自費で『夢の懸け橋』をやってください」】
山本 (コロナ禍で今後は)大きな会場ではもうできないんだよ。高木三四郎は頭ボケてるっ!!
市瀬英俊(大会総括) vs.ターザン山本
山本 大会のキャッチコピーで「戦後50年を問う」としたんだけど、「問うのなら日中・日韓を問わないと!!」と(記者の1人である)須山(浩継)さんが怒った。それで大木金太郎を(引退セレモニーの開催という主旨で)呼ぶことにしたんですよ。
市瀬 この大会は(週刊)ファイト以外には無視されたんだけど、デイリーかニッカンに大木金太郎の来日が載ったんだよね。なぜ日本に来ているかは書かれず(笑)。ルー・テーズと大木金太郎を呼んだことで400万円(各200万円)かかりましたよね。
当日はというと、(ジャイアント)馬場さんがテーズさん、大木さんに挨拶ということで、東京ドームのセンター裏に車をまわして連れて行きました。
山本 馬場さんはずっと(全日本は)出ない、出ないって言っていたのに、どうして当日には来るのよって話。しかも、全日本は巡業中だった。
市瀬 巡業では福井大会から次の大会に直接移動なのに、東京ドーム大会出場組は東京にいったん来てからの次の大会への移動。「グリーン車を用意しろ」って条件を言われて、10数人分払った。
他の団体を見ることのない馬場さんが、来たことで見ることになったんですよね。気に入ったのがみちのくプロレスのスペル・デルフィンと愚乱浪花で。でも馬場さんには試合してほしかったですね。ジャンボ鶴田さんも(体調の問題で)出れなくて。
25年前の昨日の話になるのですが
1995年4月2日
㈱ベースボールマガジン社主催
「夢の架け橋~憧夢春爛漫~」
東京ドームで行われた。※三沢、小橋、ハンセン VS 川田、田上、エース pic.twitter.com/2pTU8yyQsZ
— 小橋建太 (KENTA KOBASHI) (@FortuneKK0327) April 3, 2020
山本 新日本はバカだから、無意味なシングルを組んじゃってね。これはお祭りなんだから。馬場さんは「6人タッグ時間切れが一番喜ばれる」とわかってる。なのに、ケロちゃん(新日本の田中秀和リングアナ)も「(新日本のものが)最高カード」だと。おめでたい人だなあってね。
ただ人気は新日本。全日本の増刊号なんて義理で出してた。新日本の販売部数の5分の1ですよっ!!
市瀬 大会の座席で雛壇つくるとしたらという試算もしたんですが、思ったより経費がかかるんですよ。やってみないとわからないなあとは思いましたね。
山本 大会についての会見なんて(他マスコミは)来ないと思ったから、やらなかった。そしたらゴングが「なぜやらない」って(誌面に)。大入り袋も用意したよ。『夢の懸け橋』は千円にした。大入り袋って、新日本は5千円で、UWFは5円なんだよね、御縁があるようにって。それってどうかと思ったけど。
【ボク(カクトウログ管理人)も当時「なんで会見をやらないのか、だから他マスコミは反発して当然」と感じていた。なるほど、意図してやらなかったと。】
山本 川田(利明)が「血の流れたリングではやりたくない」ってことで、電流爆破デスマッチをやるFMWのためにリングをもう一個つくったんだよね(レフトスタンド側にもう一個を設置)。プロレスラーはややこしい。
【進行や会場の都合かと思いきや・・・なんと川田の希望がきっかけ!!】
山本 前田(日明)さん? リングスの黒田社長が「ぜひやらせてください。クリス・ドールマン選手に引退試合をさせたい」って挨拶が来て。前田は出ないと思われていたから、この出場がゴングと東スポに与えたダメージは最大だったね。前田は試合はつまんないけど、(入場テーマの)キャプチュードがいい。
ギャラは男子団体が500万円、女子が400万円ですよ。レスラーというのは感謝の気持ちゼロなんだよね。だからこの興行では「ありがとう」はゼロですよっ!!
市瀬 観戦記本に選手コメントが出てるんですが、三沢(光晴)さんは見出しで「あんまり出たくなかったよね」ですもんね(笑)。
山本 三沢の言葉はいちばんノーマル。自己同一化してるし、レスラーとしてはナンバーワンですよっ!!
市瀬 三沢選手の方は山本さんを好きじゃなかったですよ(笑)。
川田選手は大会を一番気にしてて「カード決まった?」って何度も。どこか(の会場)でポロッと話した。するとけっこうお喋りで、控室でみんなに言っちゃった。馬場さんに俺がエライ怒られた。「なんで川田なんかに言うんだ」って。馬場さんからみんなに伝えないと(秩序が)崩れると。社会を学びました。
山本 あのね、Twitterで動画が流れてくるんだけど、ハイスパートレスリングでは川田が三沢より上だね。