前田日明もエムズアライアンス 武藤敬司「“点から線”は猪木さんの教え」
武藤敬司がホストとして繰り広げている『トーキングマスターズ シーズン2』。23日に青山 LA COLLEZIONEにてゲスト・前田日明との顔合わせが実現した(同所のイベントとしては昼に「丸藤正道vs.前田」、夜に「武藤vs.前田」)。
今の時代では絶対に許されない!? 新日本プロレス黄金時代のイタヅラ
この日の昼の部で、丸藤の誘いによりユニット・エムズアライアンス(イニシャルM軍団)入りした前田。
武藤「エムズアライアンス、もう引き受けたんですか? アングラじゃなくマスコミの前でやってくださいよ〜」
8月23日(日)17:30青山 LA COLLEZIONE『トーキングマスターズ シーズン2』武藤敬司×前田日明#武藤敬司 #前田日明 #noah_ghc #Msalliance #ringsjp pic.twitter.com/2lag37ycnT
— カクトウログ📶プロレス/格闘技 (@kakutolog) August 23, 2020
もう引き受けちゃったんですか? アングラじゃなくマスコミの前田やってくださいよぉ~。(ノアを主戦場にしていることを武藤に確認する前田に対して)今はノアはサイバーエージェントで体制整えてやっているんですよ。
武藤は1984年に新日本プロレスに入門している。1984年は第1次UWF設立、長州力ら維新軍の全日本プロレス移籍があった年。団体を出入りした先輩たちに翻弄されるレスラー人生がスタートする。
橋本(真也)と(ドン)荒川さんに〇〇〇ランドに連れていかれて、(合宿所に)戻ったら星野(勘太郎)さんに「お前ら行かなかったのか」と抱きしめられました。ちょうど長州さんが離脱会見をやった日だった。
このあたりは自叙伝でも伝えられている通り。かつての新日本プロレスでの練習や上下関係には厳しさがあったとも伝えられる。
前田さんのスタイルで道場を今やったら訴えられるよ(笑)。いまヒロ(ヒロ斎藤)さん(が新日本の選手コーチ)ですかね? 飯塚(飯塚高史)もやってますね。飯塚なんか教えたらみんなヘタクソになっちゃうよ。
飯塚は今でも現役さながらの肉体と風貌をキープし、ももクロのイベントへの乱入もこなしている。コーチをしながらのキープ!?
新日本プロレス黄金時代の先輩からのイタヅラは日常化していた。
新日本バナシは鉄板。
武藤「先輩に『アンドレに挨拶してこい。ファックユーって言えばいいから』やったらアンドレに殴られた」
前田「俺なんか『お母さんは元気ですかと聞け。マザーファッカーって言うんだ』って」#武藤敬司 #前田日明 #noah_ghc #Msalliance #ringsjp pic.twitter.com/F0uElLWMuB
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小島(聡)がセミがキライなんだけど、橋本(真也)がセミを100匹くらい小島のフトンに入れたことがあって。
この理不尽さで多くの優秀な人材が去り、変なヤツばかり!?が残ったのではないか。そんなくだりでアッケラカンと振り返る武藤だった。
坂口に慰留されて武藤のSWS入り消滅 幻に終わった前田の新日本「取締役」就任
1985年12月には前田らUWF勢が新日本に復帰。武藤は“軍団”を超えての前田との親交があったようだ。
巡業の最後とかに六本木に誘ってもらったことがある。高田(当時・伸彦)さん、山崎(一夫)さん、前田さんに俺。なぜかウォッカを飲まされました。当時は前田さんの蹴りを食らうのがイヤでねぇ。
ハハハッ。嫌そうな顔をしてたよ。
(試合を通じて前田さんを自身に)振り向かせようとした!? いや、前田さんは猪木さん・藤波さんという“前”を見てましたから。
猪木さんたちと新旧世代闘争で対立(1987年6月12日マイク合戦)したときは、本当は世代闘争を言うのは俺のセリフだったんですよ。なのに(世代闘争よりも最強決定をけしかけて)勝手なこと言ってとみんなに睨まれた(笑)。
前田はこのとき「どうせやるんだったら世代闘争で終わらんと、誰が強いか、一番強いか、決まるまでやりゃいいんだよ」と一世一代のマイク。
司会の佐久間一彦氏によると、滑舌の悪いレスラーたちのマイク合戦でのセリフが不明なときにはマスコミで会議をしていたんだという。記事を合わせておかないと、ストーリーにもブレが生じる。藤波辰巳(当時)に言った内容を確認しにいったら、本人もわからなかったこともあったとか。
滑舌は猪木さんは大丈夫ですよね。猪木さん普段からアイウエオアオってやってたよ。(倍賞)美津子さんからのアドバイスもあったんじゃない!?
“最後”の金曜夜8時ゴールデンタイム生中継が1986年9月とされるが、テレ朝は新日本の改革を迫ってもいた。
あの頃にテレ朝から辻さん(辻会長)がやって来て「UWFはやめろ。新日本プロレスの取締役になれ」って言われたんですけど・・・『いやだ』と返事して。なっとけばよかったですね(笑)。
前田さんが取締役になったら風景が変わったかもしれないですね。
それでいて、新日本を離れてからの前田の様子も武藤は気にしていたようだ。
(第2次UWFが分裂して前田は“1人”でリングスを立ち上げたが)1人でやっているカッコよさがリングスにはありました。
最初はWOWWOWは1放映1千万出してくれてた。(リングスの前に話が来ていた)UWFのときは4千万という話だった。(実現していれば)毎年5億円入れてくれるってことで、ギャラ3倍だなぁと(しかし第2次UWFは分裂)。
第2次UWFにはメガネスーパーがスポンサーとして登場し、SWSなる団体設立をその後に手掛ける。
SWSには行こうと思ってたんですよ。
俺にも「(契約金は)いくらほしいですか。希望を言ってください」って。
坂口(征二)さんの引退試合の日(1990年3月23日)に、その前に事務所で『自分辞めます』と。坂口さんは「この日に言うことないだろ」って。それで『メガネスーパーにはいくな』と説得されて(坂口引退の)後楽園ホール大会で凱旋の挨拶をしたんで。
この武藤のSWS決意は『さよならムーンサルトプレス 武藤敬司35年の全記録』(福留崇広著/イースト・プレス刊)にて明かされていたが、ファンの前で話されることは珍しい。大会前の会話場所は書籍の方では「坂口さんの自宅」となっている。