猪木と惜別のダーッ 藤波「暴動もあったけどファンを本気にさせた」
ジャンボも長州も鳴り物入りだった。自分たちは“違うもの”と位置付けていた
藤波 当時は下から突き上げる長州の勢いがあった。7:3くらいで会場の中で長州ファンと藤波ファンが対立してね。会場でもファンの取っ組み合いがあったくらい熱かった。
(ライバルという点では、ジャンボ鶴田との対戦が叶わなかったという話に)
藤波 ジャンボも長州も(プロレス前の実績があって)鳴り物入りだったから。自分たちは違うものとして位置づけていたけれども、やるうちに意識できるようになった。
(1979年8月、日本武道館での「夢のオールスター戦」。藤波、ミル・マスカラス、鶴田がトリオを組む)
激しい興行合戦を繰り広げ、新日本プロレスとライバル関係にあった全日本プロレスに、ファンに待望されながらも #藤波辰爾 と試合が実現しなかった相手がいる。#ジャイアント馬場 と #ジャンボ鶴田 だ。藤波が忘れられない名手たちとのエピソードとは。@dragondraditionhttps://t.co/5EU5oCYDhF
— 集英社スポルティーバ (@webSportiva) May 14, 2021
藤波 自分はジュニアということで軽量だったし、オールスター戦では意識して出番を増やしたよね。看板を背負っていた時代だから。
ベスト姿で思い起こすドラゴンストップ。新日本という“危険”団体に猪木あり
藤波 ジュニアから転向して『蛇に睨まれた蛙』じゃないけど、東体(東京体育館、1985年9月19日、猪木戦)ではずっと自分のペースで闘えた。猪木さんは眼光が鋭かったねぇ!! こっちは必死で攻めても耐えてる下からの眼光が怖かった。あれを目で殺すって言うんだろうね。
It's Sunday, September 19 in Japan! #onthisday in 1985, Antonio Inoki did battle with Tatsumi Fujinami, with special guest referee Lou Thesz!
Relive history with @njpwworld!https://t.co/1UpPnbnLd1#njpw
— NJPW Global (@njpwglobal) September 18, 2021
藤波 ただ、ピンクのガウンは勇気がいった。「コノヤロー!」と言われる気がして。選手の大量離脱(1984年に長州らが全日本プロレスに移籍)? 猪木さんとはそういうシチュエーションで必ず組まれるから切ないんだよね。
創設時には想像できなかったプロレスブーム。闘魂継承そして棚橋弘至戦
🐉写真がノリノリすぎる🐉
9月10日(土)23:30 NHK『【レギュラー番組への道】1オクターブ上の音楽会』藤波辰爾が伝説のテーマソング「マッチョ・ドラゴン」を披露#1オクターブ上の音楽会 #藤波辰爾 #マッチョ・ドラゴンhttps://t.co/SLd2xPIdSg
— KAKUTOLOG📶プロレス/ボクシング/MMA/格闘技カクトウログ (@kakutolog) August 23, 2022
藤波 NHKへの出演? 完璧ですね!! でも久しぶりに歌うと頭に入ってこないのよ。37年前も難しかったけど、唄い出しがね。撮影は朝10時から16時で、みなさんがおつきあいしてくれて。テーマ曲は自分が変えてるんじゃないんだけどね。自分は試合でせいいっぱい。
(ベスト姿に自ら突っ込む)
藤波 ドラゴンストップみたいな(2001年1月4日、東京ドーム、長州力vs.橋本真也。解説席の藤波が試合を止める)。
【#有田と週刊プロレスと】
S2#24絶賛配信中!📣😆今回のテーマは【ドラゴンストップ】❗
因縁の長州vs橋本で、前代未聞の事件が勃発💥殺伐とした試合を続ける2人に、なんと”あの男”が…!東京ドームが大ブーイングに包まれた"最悪の結末"とは!?😱お見逃しなく♪☺✨
📺https://t.co/fXjAb8sLMi pic.twitter.com/8zeze5ul8M— 『オマエ有田だろ!! 有田哲平のプロレス噺』【公式】 (@aripro_wp) January 2, 2018
藤波 解説だったけど気持ちはレスラーだからね。リング上が気になって、いろんなことがあった時代で。新日本というのは危険な団体で、猪木さんの存在というのがあったねぇ。(ファンによる国技館での)暴動もあったけど、ファンを本気にさせたのが猪木さんでもあった。
(進退についても言及する)
藤波 自分に対して引退は「許せない」と考えているんです。プロレスの難しさはやればやるほど見えてくる。こういうことやってみたいとか演出してみたいとか飽きないんだよ。68歳にして棚橋とやる。今回は無鉄砲さが過ぎたかな!?
TATSUMI FUJINAMI 50th ANNIVERSARY THE NEVER GIVE UP TOUR FINAL レック株式会社 Presents DRAGON EXPO 1971
日時:12月1日(木)18:30
会場:国立代々木競技場 第二体育館
<メインイベント/藤波辰爾デビュー50周年記念試合 FINAL>
藤波辰爾
(1/60)
棚橋弘至(新日本プロレス)
藤波 自分がどこまでできるか試したかったんですね。気合い入れてコンディションを上げていかないと。
(ユリオカ超特Qさんが、あらゆるスタイルに猪木の名試合があると発言)
藤波 猪木さんは最高の料理人だよね。新日本を立ち上げたときには、あの80年代のようなプロレスブームになるとは思わなかった。当初は選手兼営業兼使いっ走り。飛び込みでチケット売って道中にポスターを張ったりね。猪木さんの家っていうのはすごかったんだけど、庭に奇麗な石が並んで鯉が泳いで松のいいのが並んでた。それがブルドーザーで更地になって道場が建てられた。最初の宣伝カー用のテープには(当時の夫人だった)倍賞美津子さんが吹き込んでね。美津子さんに何と呼ばれてた? 笑いジワが(目尻の左右に3本ずつ)できるんで「六本ちゃん」って(笑)。
(エンディング)
藤波 猪木さんは自分の中に生き続けます。リングに上がる以上は伝えていきますし、みなさんの中にも生き続けるだろうから。12月1日は自分が言ったからにはベストなカラダをつくって勝負をしてみたい。期待してください。
いかがだっただろうか。昭和プロレス“最終回”を闘った男。至近距離から見た猪木、伴走した時代を激語り。
猪木への語り口からは恐れとリスペクトが交錯する。裏を返せば、ファンの目に見えていたのと同じように、近くで見てもアントニオ猪木であり続けということなのだろう。それが実感できたトークイベントだった。
名勝負数え唄は長州の下克上として知られるが、藤波にとってのプロレスキャリアは“鳴り物入りに並び立つ”といったところとなる。けっして言葉が多くない藤波のトークから生き様が溢れ出た。
ボクもユリオカさんのように、藤波長州戦は藤波の応援をしていたなぁ。金曜夜8時で放映されていた、当時ならではの熱さ。トークを聞いていて記憶が甦った。
50周年イヤーの最終月に藤波棚橋戦、そして年明けイッテンヨンは新日本が猪木追悼大会。猪木が大きくしたプロレスの継承は様々なアプローチで行われていくが、それを引き続き追いかけていきたい。