藤田和之が格闘CH降臨へ 「31分の視殺戦」「幻のヒクソン戦」語る
幻のヒクソン戦については、世に出ている情報が少ない。
藤田和之vs.ヒクソン・グレイシー計画の真実とは!?
②の藤田vsヒクソン戦に関しては、おそらく知らないファンの方ばかりだろう。
この件に関しては、私が一度だけ自著で触れたことがある程度。
2009年7月発売の単行本『子殺し 猪木と新日本プロレスの10年戦争』(宝島社)
の最終章『ヒクソンの亡霊』の中で記している。大まかに説明すると、400戦無敗の男と称されたヒクソン・グレイシーの名を
一躍、世界中に轟かせたのが、髙田延彦との東京ドーム2連戦だった。PRIDE.1=1997年10月11日(東京ドーム)
〇ヒクソン(腕ひしぎ十字固め、4分47秒)髙田PRIDE.4=1998年10月11日(東京ドーム)
〇ヒクソン(腕ひしぎ十字固め、9分30秒)髙田プロレス界のスター選手である髙田連敗の衝撃は大きかった。
ここでヒクソンを叩いておく必要がある――。
その直後、すぐに新日本プロレスは動いたのである。スポンサーを付けて、ヒクソンサイドと話し合いに入った。
当時、新日本が描いていた図式は、早ければ1999年の1・4東京ドーム、
交渉が長引けば同年4・10東京ドームへのヒクソン招聘。その対戦相手として第一候補に挙がったのが中西学。
第二候補として指名され、本人もやる気満々だったのが藤田和之。
当時プロデビューからまだ2年の藤田ながら、
その桁外れの強さを新日本首脳陣は大いに買っていた。最終的にこの話は流れた。
契約書をヒクソンサイドに提示し、
あとはヒクソンがサインするだけ。
そこまでプランは進んでいたのだが、
ヒクソンはサインをしなかったのである。このとき、ヒクソン側と交渉にあたった永島勝司(当時・宣伝部長)、
ヒクソン潰しのための刺客となった藤田和之。
当時者である2人が初めてあの時の状況を語る。
いやはや、生々しい。当時の状況は知っていた私であるが、
こうやって2人が直接向き合って語ると、
なにかゾクゾクとしてくる。
正直、私も興奮を抑えきれなかった。幻に終わった藤田vsヒクソン戦。
たらればはないにしても、
もし実現していたら、新日本の歴史、総合格闘技の歴史、
その後の藤田の方向性も一変していたことだろう。(中略)
今回、私がイチバン感じたこと。
藤田とは彼が新日本に入門して以来、23年以上の付き合いになる。
今でも電話で話したり、メール交換するなどプライベートでも親交が深い。仕事の話もすれば、雑談ばかりのときもある。
ただし、正式な取材であろうとプライベートの雑談であろうと、
ここまで藤田が本音で事実関係を雄弁に語ったのは初めてと言っていい。リングに上がればスイッチが入って野獣と化す藤田。
ところが一旦リングを降りたら、常識人で腰が低い。
その一方でユーモアのセンスにも溢れている男。そんな藤田と23年以上も付き合ってきたのだが、
今回、藤田史上最高に雄弁な姿を見て、
私も驚いたし、かるい感動も憶えたしだい。是非とも、番組を観てほしい。
ファンのみなさんが抱いている藤田観、藤田像が、
大きく変わるかもしれないので。
藤田による潮崎戦もヒクソン戦も、ともすれば背景話は“お蔵入り”するところだった。YouTubeの聞き手に“藤田番”とも言うべき金沢氏が加わり、いよいよ披露されていく。ここはもう信頼関係であるし、聞き手の技量だろう。
伝え聞いた情報によると、永島氏と金沢氏が立ち上がったのは“新型コロナの情勢だから”というのは大いにあるという。ここまで壮大な格闘ドラマを提供し続けた日本マット界に眠るエピソードや主張を掘り起こす!! その使命感もあっての『永島オヤジの格闘チャンネル』は、プロレス系YouTubeの中でも異彩を放つ。
まだまだ始まったばかりだが、ヒットしている宝島社の証言シリーズを無料にしたうえで、内容でその上をいっている様相を見せてきた。プロレスファンは要チェック!!