橋本真也“最期8か月”の真実 高島宗一郎「復帰戦の相手は決まっていた。三沢光晴さんに『小橋建太』でOKをもらっていた」
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14年5か月前に亡くなった橋本真也。生きていたとしても54歳であり、40歳での死が、いかに早かったかを噛みしめずにはいられない。
2004年、団体の経営方針等、諸問題の積み重ねから団体内部との確執が生まれ、11月25日にZERO-ONE崩壊を宣言し負債は全て橋本が自ら被ることで決着がついた。1人でフリーの道を歩むことになる。橋本もその後、長い間治療せず放置していた右肩を手術し、リハビリをしながらリングへの復帰を目指していたが、2005年(平成17年)7月11日8時頃、滞在先において脳幹出血を発症し救急搬送されたが、10時36分に搬送先の病院で死亡が確認された。40歳没。睡眠時無呼吸症候群も遠因であったと推測されている。
7月16日に行われた橋本の葬儀には武藤・蝶野・小川ら団体の垣根を越えて、大勢のレスラー、各界著名人、一般ファン等1万人以上が参列した。特に闘魂三銃士の絆を持つ武藤、蝶野の受けた衝撃は大きく、武藤が葬儀場の階段に座り込んだまま立ち上がれなくなったり、蝶野が人目をはばからず涙に暮れるなどした。友人でもあるKBCアナウンサーの高島宗一郎の涙声の絶叫に続き、出棺時に橋本の入場曲である『爆勝宣言』が流され、参列者から投げられた数千本もの赤い紙テープと「ハッシモト」コールの大声援に包まれて送り出され、遺体は久保山斎場で火葬された。また旧ZERO-ONEで橋本と苦楽を共にした大谷は棺桶を担ぐ役から外されていたことを無念に感じ、葬儀場の出入り口付近で悔しさを噛み殺していたという。
8日、BSフジにて『反骨のプロレス魂~破壊王 最期の真実~』なる番組が放送された。番組では、急逝に至るまでの“空白の8か月”の真相に迫ろうとする。橋本は何の構想もなく過ごしていたのか? その期間だけは資料がない。取材班は、葬儀の出棺の際にコールを担った福岡市長・高島宗一郎氏にたどりつく。
「実は橋本さんの復帰戦の相手は決まっていたんですね。決めてくれた後押しっていうのは三沢光晴だったんですよね。三沢さんからも、実は『小橋建太で』っいうのはOKをもらっていたんです。
破壊王と鉄人がぶつかるというこの狼煙をもって、橋本さんは復活しようとしていたんです。破壊王ここにありっていうのを示して、新日本に対して、ZERO-ONE勢に対して見せつけたかったと思うんですよ。それぐらいの反骨心をもって実は最期を迎えていた」
ライブドアをスポンサーとして秘密裏に計画されていたんだという。
今日は橋本真也さんの命日です。
亡くなって10年。
四天王、三銃士の中で橋本さんだけは戦った事がありませんでした。
橋本さんは雑誌の取材で「誰と戦ってみたい?」という質問によく「小橋」と答えてくれていたみたいです。 pic.twitter.com/pSpZPdIpc0— 小橋建太 (KENTA KOBASHI) (@FortuneKK0327) 2015年7月11日
橋本真也と小橋建太。夢の対決は叶わなかった。
番組通じて、橋本のまわりの証言者により、橋本という人間の熱さ、情深さ、あったかさ、ダメさが溢れる。このような番組が成立してしまうのも、橋本が歩んだ道が多くの人の心を動かしたということだ。
番組は「大好きだった先輩に捧ぐ」との言葉で締められていた。
今年も「反骨のプロレス魂」のナレーション担当させて頂きました。
今回は「橋本真也」さんです。プロデューサーの鈴木健三さん、森本さん、そしてディレクター清水さんのプロレス愛が凝縮された番組!
12/8(日)17:00〜17:30 BSフジで放送!#反骨のプロレス魂 #橋本真也 #破壊王 pic.twitter.com/SuDyKTAsre— 大楽聡詞 (@dailucky1) 2019年12月5日
番組プロデューサーはKENSOである。