【記憶の懸け橋】ドーム決定で「週プロは第4団体だ」煽られた士気 フリーランス編
布施 自身でいうと、格闘技通信と週プロを行ったり来たりという立場でしたね。『夢の懸け橋』は行く予定だったんですが、リングスから「来ないでくれ」と。前田(日明)さんとの関係を気にしたみたいで。前田さんには3回か4回か、壁に押しつけられたことがあります(笑)。
みんなそれぞれの意志があって「UWF」は面白かったですよ。30年経っているのに、まだ裁判やるんですよ!! 年月が経つと怒りが増幅するというか。自分にはUWFをレスリング的、柔道的に論評できる強みがありました。そんな中で、前田さんの「文脈を見出す力」はすごくあった。こっちの考えを読み取るんです。
週刊プロレス主催「夢の懸け橋」から四半世紀。
各々の記憶を #ターザン山本 と30分1本勝負。
これで終わるのか。ここから始まるのか。私の出番は16時過ぎ。#闘道館 #市瀬英俊 #柴田惣ー #斎藤文彦 #小島和宏 #鈴木健 #和田京平 #佐藤正行 #小佐野景浩 #布施鋼治 #同じビルのRISEの事務所で待機 pic.twitter.com/6g3oIx179o— 布施鋼治 KOJI FUSE (@WbKoji) July 5, 2020
布施 週プロは毎回毎回が楽しかったですね。編集部自体がラジカルで。行くたびにネタを持っていくようにしてたんですが、たまたま知り合いのデザイン会社がUインターのロゴをつくってて、それを山本さんに報告したら、翌日活版に「Uインター」って書いてた。まだ団体名は発表前なのに(笑)。
山本さんは絶頂期でしたよね。夢の懸け橋が決まったとき、「週プロは第4団体だ」って言ってた。
鈴木健(司会) ええっ、本当ですか(笑)。また「第4」っていうところが面白いですね。どうして第4?
布施 新日、全日、UWF・・・ですか!?
山本 編集部の士気を煽らなきゃいけないからっていうのがあったからねぇ。
布施 当時はネットもなかったから、噂が誌面の活気になった。
山本 テレフォンサービスで試合結果を流したりね。やれることはいろいろやった。
布施 大会の2週間前からピリピリで、いつもと違う空気でした。ナーバスで。マスコミがやるプロレス大会は、最初で最後では!? パンフも4万部が完売でしたから!! 給料安いのに働いて他の部署から×××××××と言われてましたよ。いい時代を過ごさせていただきました。
「週刊プロレス」はベースボール・マガジン社、他の編集部の人たちからは×××××××と呼ばれていた。
— ターザン山本! (@tarzany) July 6, 2020
【1991年の工藤めぐみ表紙号の話題に。】
山本 (SWSビッグマッチが取材拒否のため掲載できず)売れる可能性がゼロの週だった。突然、猪木vs.グレート・アントニオ戦(喧嘩マッチ)が浮かんで来たんですよぉ!! こういうときこそすごい写真を。そう考えてたら、工藤めぐみさんのスタジオ写真がそのときあった。『スコラ』(当時のアイドル写真誌)がいつも上半身(でのショット)を出してたのも見て・・・。
1991年の工藤めぐみ表紙号。グラビア誌『スコラ』にインスパイアされたことをターザン山本氏が7.5トークイベントで明かす。並べてみて・・・どうでしょうか!?#週プロ #記憶の懸け橋 #工藤めぐみ #くどめ pic.twitter.com/5usELulkpN
— カクトウログ📶プロレス/格闘技 (@kakutolog) July 8, 2020
山本 目を開けてたらつまんない。あえて目を開けていない写真を選んだ。具体的なものが見えていないし、自我が消えるからこれがいいんです。あのコピー(FMWは聖家族 だからくどめ大好き)が浮かんだのも我ながらすごい。
鈴木健 本人は「嬉しかった。表紙になるとは思わなかった」そうですよ。全日本女子を辞めて「まさか表紙になる機会があるとは」って!!