スクープ合戦、取材拒否寸前!? ジミー鈴木&金沢克彦“ゴング戦友”対談
ジミー鈴木氏と金沢克彦氏が“ゴング戦友”対談だ。6日、巣鴨・闘道館にて『ジミー鈴木マニアックス・チャンネルプレゼンツ公開討論会第3回 元週刊ゴング編集長・元ワールドプロレスリング解説者 GK金沢を交え語り合う会』が開催された。
(主催者に特別にご許可をいただき、イベントの一部を記事化しております。)
ジミー鈴木プロフィール/金沢克彦プロフィール
【ジミー鈴木】
本名・鈴木清隆。1959年、東京都出身。幼少のころよりプロレスの熱狂的ファンで、学生時代には2つのプロレス・ファンクラブの会長を務めると同時に古きよき時代のアメリカン・プロレスに熱中。1979年に初渡米し、プロのカメラマンとしてデビュー。帰国後、大学を中退し、1982年テキサス州サンアントニオに留学。プロレス専門誌紙の米国通信員を務めながら英語とスペイン語をマスターする。23歳でメキシコ人女性と国際結婚をして帰国、『週刊プロレス』、『ビッグレスラー』、『週刊ゴング』などでフル稼働するが、『ビッグレスラー』廃刊を機に米国移住を決意。87年3月より、テキサス州ダラスをベースに『週刊ゴング』や『東京スポーツ』『週刊ファイト』などを中心に、カメラとペンの両方でアメリカン・プロレスの素晴らしさを伝えている。またアメリカ以外にも、メキシコ、ヨーロッパ、そして日本を含むアジア地区と、世界を股にかけて、精力的にプロレス取材をしている。日米のTV番組にも何度となく出演。最近ではタイガー・ジェット・シンのドキュメンタリー映画にも出演した。
※『現地発!ジミー鈴木のアメリカン・プロレス直行便2005』より(当時記載)
【金沢克彦】
1961年12月13日、北海道帯広市生まれ。
青山学院大学経営学部経営学科卒業後、2年間のフリーター生活を経て、1986年5月、新大阪新聞社に入社、『週刊ファイト』編集部・東京支社に配属。1989年11月、日本スポーツ出版社『週刊ゴング』編集部へ移籍。2年間の遊軍記者を経験した後、新日本プロレス担当となる。1999年1月、編集長に就任。2004年10月まで5年9カ月に亘り編集長を務める。同年11月、日本スポーツ出版社の経営陣交代を機に編集長を辞任し、同誌プロデューサーとなる。翌2005年11月をもって退社。
以降、フリーランスとして活動中。現在は、テレビ朝日『ワールドプロレスリング』、スカパー!『サムライTV』などの解説者を務めるかたわら、各種媒体へフリーの立場から寄稿している。
※ブログサイトでの記載より
週プロとのスクープ合戦。鈴木氏「フリーで食っていくハングリー精神は持ってた」
この日は鈴木氏の発案で、観客でも希望者にはワインがふるまわれた。お酒も入り、かつての熱き活字プロレス時代の話をする側・聞く側ともスイッチが入る。
鈴木氏は米国在住フリー記者だったがゴングの仲間だった。ゴングは当時、週刊プロレス誌と熱いライバル状態。するとトークの節目節目で、観客の1人がゴング表紙を金沢氏に手渡しするというこれ以上ない“演出”。「そうそう、この表紙!!」と何度もなる。盛り上げた観客にも拍手。
話は自然とスクープ合戦に及ぶ。ジャンボ鶴田さんの訃報をゴングはスッパ抜いた。実はそれが鈴木氏経由の情報だった。
鈴木「これをスクープすべきなのは雑誌だったら週刊ゴング。新聞だったら東京スポーツ。俺の中に思い入れ、意地があったから。俺が味方した方が勝つんだよって意地で仕事をしてた。フリーで食っていくのにそのぐらいのハングリー精神は持ってたよね」
それでいて鈴木氏の一本気な性格は、特定団体から問題視されることもあったという。実際に金沢氏が竹内宏介社長(当時)から鈴木氏の今後について相談されたことも。
金沢「そのときに何て言ったかというと『ジミー鈴木はゴングにとって必要な存在なんで続けさせてください』って言った。僕にとって本当に必要な存在だから首にしないでください。竹内さんからは『わかった。でも、もう1回やったらダメだよ』って」
取材拒否されてもおかしくない怒りが特定団体にあったようだ。それでも拒否につながらなかったのは、一定期間、週プロよりもゴングが売れていたことにあると金沢氏は当時を振り返った。
GK金沢vs.ターザン山本の編集長直接対決は実現せず!? 競っていた時代は色褪せない
この日の観客からツッコミが。
「金沢さんって99年にゴングの編集長になってる。ターザン山本さんは96年に辞任してるんですよ。だから闘ってないですよね。トーク対決とかやりましょうよ」
ライバル誌、週プロの名物編集長・ターザン山本氏とは対決してないのではないかと。
金沢「ターザン追放のきっかけとなったのが僕の長州力インタビュー。本当に追放になると思わなかったから寂しかった」
編集長としても“直接対決”したかった本音が漏れる。
金沢「その後に中立の浜部(浜部良典)さん、さらに後が佐藤くん(佐藤正行)だった。佐藤くんには敵対意識と反則攻撃を感じたかな(笑)。きっとターザンにキツく言われた過去があるんだろうね。ことごとく新日本のスクープを全部ゴングが持って行ったことに対して、『お前は何やってんだ』『またやられたな』みたいな。元々は真面目な人間だし今ではなんのしこりも残っていないけどね。当時は雑誌戦争のなか感覚が麻痺しちゃったのか、団体サイドが『これは書かないでくれ』って言ったことも、週プロだけは書いちゃったし」
だけれども、思わぬ“副産物”もあった。
金沢「今になってプロレスの歴史になったことで長州力の『あの野郎(宮戸優光)がくたばって墓建ったら、俺はクソぶっかけてやる』発言。あれは地方会場で長州が大会前に全マスコミを集めて対Uインターに関して緊急会見を開いたときの最後の一言だった。だけれども、会見に立ち会った馳浩が『最後の一言は非常に不適切なので絶対に書かないでください』と。でも週プロだけは書いたわけ。またやりやがったよと思ったけど、今になってみたらよくやったと思う。週プロが書かなかったら、世に出ることはなかったんだから」
イベントでは現在文字通りHOTな話題である(?)反則・介入に関しての観客からの金沢氏への質問も。会場では金沢氏の持論も炸裂していた。
鈴木氏が観客に問う。「あの最強と言われたジャンボ(鶴田)が『コイツは強い』と言ったレスラーは誰だと思いますか」。何人かのレスラーの名を出すが、当たりが出ない。金沢氏が「僕が思う史上最強レスラーはダニー・ホッジだけど」という見解を出すとビンゴだった。ホッジには「1974年7月には全日本プロレスに来日(当時42歳)。開幕戦となる7月5日の後楽園ホール大会ではジャンボ鶴田と対戦し、30分時間切れで引き分けている。これが選手としての最後の来日となった」とのWikipedia記載あり。
この鶴田の発言には、ジャイアント馬場が「俺はこういう連中と(その選手の全盛期に)やってきたんだよ」と得意顔だったという。レスラーと関係を築いていたからこそ、鈴木氏が目にしている現場バナシは唸らせるものがある。鈴木氏からは、自身が手がけたAJスタイルズのWRESTLE―1ワンマッチ参戦(後楽園ホール、真田聖也戦)の秘話なども披露された。ここだけかつ深いトークが展開される『ジミー鈴木 マニアックス・チャンネルプレゼンツ公開討論会』シリーズは次回開催にも期待だ。
鈴木氏と金沢氏というゴング戦友。思えば当時は2大団体としての新日本と全日本もあり、バックアップとしてのテレ朝と日テレもあり、ゴングと週プロもあった。大いなるケンカもしながら、より面白いものを競っていた時代は色褪せることがない。
実際のトークは2時間に及んだ(上記はごく一部)。紹介不可能だった箇所も含むアーカイブ(口外不可)をぜひご視聴ください。
[https://twitcasting.tv/pinktez/shopcart/310878]
アーカイブ 2,500 円(税込) 視聴期限: 2024年7月20日(土) 23:59 まで
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・交番とロータリーを正面にして右に曲がる。
・本屋と松屋の右側を線路沿いに進む。
・闘道館の看板が見えます。