『夢の懸け橋』から25年 ターザン山本氏と小佐野景浩氏が秘話公開
5日、『記憶の懸け橋』と題したトークイベントが都内で開催された。ソーシャルディスタンスを伴いながら会場に収容できるギリギリ、50人のファンが耳を傾けた。
1995年4月2日 ベースボール・マガジン社主催のオールスター戦『夢の懸け橋』
夢とそれから
『記憶の懸け橋』~俺とお前の25年を問う!~「夢の懸け橋」から四半世紀。
各々の記憶をターザン山本と三十分一本勝負。これで終わるのか
ここから始まるのか俺とお前の二十五年を問う。
トークで懸け橋。【日時】
2020年7月5日(日)
13:40開場 / 14:00開始
20:00頃終了予定
※途中休憩あり【会場】
闘道館【対戦カード】
1.ターザン山本 独白
2.市瀬英俊(大会総括) vsターザン山本
3.柴田惣一(東スポ) vsターザン山本
4.斎藤文彦(レッスルマニア) vsターザン山本
5.布施鋼治(LLPW) vsターザン山本
6.小島和宏(全女・FMW) vsターザン山本
7.鈴木健(RINGS) vsターザン山本
8.和田京平(全日) vsターザン山本
9.佐藤正行(新日) vsターザン山本
10.小佐野景浩(ゴング) vsターザン山本
進行:鈴木健
『夢の懸け橋』とは!?
1995年4月2日、ベースボール・マガジン社主催のオールスター戦『夢の懸け橋』が東京ドームで行われた。
メジャー・インディー・UWF系・女子プロレスから全13団体が参加した。但し、「各団体の純潔メンバーでのカードを提供する」といったコンセプトのもと、各団体間の交流戦は一切行われなかった。全13団体の選手が一堂に会す豪華さと、当時他団体と交流を断っていた全日本プロレスが他団体と同じ興行に参加するといったプレミア性が重なり、会場には6万人の観衆が詰めかけた。試合の他には大木金太郎の引退セレモニーも行われた。
だが、ベースボール・マガジン社を除くと本興行を記事として報じたのは、週刊ファイトのみであった。主催者であるBBM社が全ての発表を週刊プロレスのスクープ記事という形でのみ行い、「他紙誌を排除した私的な大会」との印象を他マスコミに与えたことが興行の黙殺に繋がったといわれている。この件について、当時のゴングの編集者は「一マスコミの興行の私物化以外に、それに伴う脅迫(出場しないと紙面での扱いを制限される等)のような概念が各団体にあったため、その独裁的な影響力などにも警鐘を鳴らすため」という意の懐述をしている。また、週刊プレイボーイからは「『戦後50年を問う』というコンセプトなのに馬場も猪木もいない。こんな大会をやった意味は何なのか」という意見も出た。
(週刊プロレス – Wikipedia)
山本氏「このころにはプロレスに飽きちゃってて『悪魔の懸け橋』なんですよ」
当時の『夢の懸け橋』を見に来た人—!? ターザン山本氏がそう質問すると、ボクもそうだが、ほとんどの参加者が手を挙げた。週刊プロレス主催による13団体の競演の東京ドーム大会は外野席まで満杯。しかし、同日の後楽園ホール大会を予定していたWAR(トップは天龍源一郎)も、いくつかの団体と連携して同大会をやり抜いて超満員。
東京ドーム大会は『週刊プロレス』を抱えるベースボールマガジン社が主催し、後楽園ホール大会は『週刊ゴング』が後押しした。ライバル関係にあった両氏の編集長、ターザン山本氏、小佐野景浩氏がトークイベント“メイン”で対決。
イベント冒頭では、山本氏が「このころにはプロレスに飽きちゃってて、(そこから社命で開催させられたことから)はっきり言って『悪魔の懸け橋』なんですよ」と明かす。実際に開催を山本氏は2回、社内会議で反対したんだという。
団体「いや山本さんに逆らってしまうと・・・」 小佐野氏「なめんなよ!!」
東京ドーム大会をやるほど、当時の週刊プロレスの勢いは絶対的だった。逆らってしまえば、各団体は宣伝機会を失うという関係にあった。“一社マスコミ主催”という大規模プロレス大会に疑問を感じた団体もあったが、小佐野氏のもとには「いや山本さんに逆らってしまうと・・・」という声がいくつか聞こえていたという。
のちに『夢の懸け橋』に大喧嘩を売ることになる小佐野氏も、そういった団体の姿勢にはカチンと来ていた。「なめんなよ!! 対立があるから、団体が分かれていったんでしょ。『マスコミに逆らってしまうと・・・』という声が出てしまうくらいなら、何のための多団体時代なんだ」と。
当時の週プロとゴングをむさぼるように読みながら、ボクはプロレス界の“最前線”を追いかけていた。いわば、ボク自身のプロレスファンとしての原点を問うようなイベンドだった。
いやこれ複数回のブログ記事に十分できるくらいのものでもある一方、いやいやブログとしては現代のプロレスメインで追いかけているんだから封印しておけばいいでしょという気もする。この日唯一のフェイスシールド装着の小佐野氏は、これ以上ない臨戦態勢だった。
気がつけば、イベントの感想を山本氏が参加者に聞き始めた時点で21時を超えた。常識をも超えた7時間イベント。参加者にとって一生モノになったであろうトークは、入場料の3倍払ってもいいと思うくらいの濃度だったことをここに記しておきたい。