北尾光司 最強説あったが横綱・新日本・SWSから離脱したお騒がせ人生 高田延彦戦はプロ格ボーダレス時代の“最高傑作”
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29日、元横綱でプロレスラー・格闘家として活躍した北尾光司が2月10日に亡くなっていたことがわかった。55歳だった。
・ 元横綱・双羽黒の北尾光司さん破天荒伝説…スポーツ冒険家にナイフ評論家(スポーツ報知) – Yahoo!ニュース
大相撲の第60代横綱・双羽黒、北尾光司さんが2月10日に慢性腎不全で死去していたことが29日、分かった。55歳だった。1986年名古屋場所後、幕内優勝の経験がないまま22歳で横綱に昇進。87年12月には所属する立浪部屋とのトラブルが原因で現役横綱が廃業となり、世間を騒がせた。その後はプロレス、総合格闘技界にも活躍の場を求めた。13年から闘病していたが、最後はひっそりと息を引き取っていた。本人の希望で家族葬を行い、今月28日に納骨を済ませた。
◆北尾さんの破天荒伝説
▼大相撲時代 当時としては珍しくファミコンやパソコンにのめり込み、「新人類」と呼ばれた。
▼新日本プロレス時代 約2年間のスポーツ冒険家時代を経て、90年2月10日の東京ドーム大会でプロレスデビュー。クラッシャー・バンバン・ビガロを相手に9分58秒でフォール勝ち。だが傲慢な言動から超満員のファンからブーイングを受けた。以降も単調な試合運びからファンに酷評され、団体の現場責任者だった長州力とも対立。同年に解雇された。
▼SWS時代 90年11月に天龍源一郎らが設立した同団体に入団。翌年4月のジョン・テンタとの試合ではレフェリーにローキックを浴びせ、反則負け。試合後にマイクでプロレス業界では禁句とされる「八百長野郎」と発言し解雇。
▼総合格闘家時代 充電期間を経て総合格闘家転向を発表。92年10月、日本武道館で高田延彦との格闘技世界一決定戦に挑んだが、3回46秒、高田の右ハイキックが顎を直撃してダウン。そのままKO負けした。
▼格闘技引退後 98年10月に東京ドームでの引退式後は実業家に。趣味を生かし「ナイフマガジン」評論家の肩書も。
総合格闘技時代の補足。
・ 【訃報】元横綱・双羽黒の北尾光司が死去、PRIDEやUFCにも出場(イーファイト) – Yahoo!ニュース
1996年4月には『第1回ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング』という大会で、当時バーリトゥード(ポルトガル語で何でもありの意)と呼ばれていた総合格闘技の試合に初挑戦。ペドロ・オタービオに1R5分49秒、寝技でのヒジ打ちで敗れた。同年5月には元横綱というブランドが評価されて『UFC 9』に参戦。マーク・ホールのパンチを顔面に受け、鼻を骨折し大量出血してのTKO負け。
1997年10月には『PRIDE.1』に参戦し、ネイサン・ジョーンズから1R2分14秒、アームロックで勝利を収めた。1998年10月の『PRIDE.4』では東京ドームで引退式が行われている。
引退後は2003年にフリーの立場ながら立浪部屋のアドバイザーに就任。表舞台から姿を消し、腎臓を患って闘病生活を送っていたが、55歳の若さで亡くなった。
現役横綱のまま廃業、複数プロレス団体(新日本プロレス、SWS)から解雇されたお騒がせ人生。
新日本を辞めた際には、こんな一幕も。
・ 北尾光司 – Wikipedia
新日本は「トラブルなどによる解雇ではなく、本人の十分な同意を得た円満退社」という旨のコメントを出している。長州は後にインタビュー記事で、「どの団体が獲得しても、北尾は必ず同じトラブルを起こすぞ」という旨の発言をしており、それはさほど時を要さず現実のものとなってしまった。
SWS参加時には1991年3月WWF(現WWE)「レッスルマニア7」に天龍源一郎とのタッグ出場も果たしている。新日ドーム・レッスルマニア・UFC・PRIDEという日米プロ格最高峰をグランドスラムした唯一の男というのは凄いこと。
高田延彦との“格闘技世界一決定戦”は、いわば北尾がヒール側に立ち、ハイキックでノックアウトされた。プロ格ボーダレス時代の“最高傑作”の一つでもある。
写真は映像収録DVDのジャケットより
関係者、当事者の証言から背景も伝えられつつある。
・ 高田延彦vs北尾光司は、引き分けにするというシナリオを無視… – Yahoo!知恵袋
Q.高田延彦vs北尾光司は、引き分けにするというシナリオを無視して高田が勝ってしまったのですか?
それとも高田が勝つというシナリオだったのですか?A.本来であれば時間無制限1本勝負でルール決めをする所を、北尾選手サイドの関係者(一説によれば暴力団員だったと言う話も)が強硬的な態度で3分5ラウンド制に変更しました。これによって完全決着戦と思われた試合の予想は一転し、時間切れに伴う引き分けに終わるだろうと考えられていました。(ブックもそのように変更されたようです)
高田選手のハイキックによるKO勝ちは故意に試合を終わらせるために放った物ではなく、放った1発があまりに強烈にヒットしたためにブック通りの決着が出来なくなった事が「泣き虫」(※高田延彦著書)の証言から読み取れます。もっとも高田選手はルール決めの際に、あのトレバー・バービック選手が嫌がった蹴りについてどのような制限を設けるか聞いた所、「別に構いません。どうぞ思いっきり蹴ってきて下さい」と北尾選手があっさり言いのけた事に立腹していたらしいので、多少の個人的感情も入っていたのかもしれません。
北尾は引き分け、第2戦実現によるギャラ獲得を目論んでいたとも伝えられる。高田はKO勝ちにより評価を上げ、同年の東スポプロレス大賞ではMVPを獲得した。いろんなバランスの中であの一戦があったのだと、改めて感慨深くなる。
もちろん本人や、北尾側関係者からの証言が出てくればまた違った印象も出てくることもあるかも。
角界での「北尾最強説」。
・ 元横綱双羽黒・北尾光司氏死去 角界OBが明かす“最強伝説”(日刊ゲンダイDIGITAL) – Yahoo!ニュース
それでも恵まれた体格とずばぬけた身体能力から、いまだに角界では「北尾最強説」が根強く残っている。285キロの小錦の右ヒザをサバ折りで破壊した取組は、いまだに語り草だ。
古株の角界OBが言う。
「稽古嫌いとワガママな性格さえなければ、さまざまな記録を作ったでしょうね。身体能力が高く、何をやらせてもうまかった。特筆すべきは上腕のパワー。まわしを取って、相手を引きつけながら前に出る。これだけでほとんどの力士は抵抗できなかった。強すぎるあまり、立浪部屋の先輩からは〈あんなのと稽古したら、こっちが壊される〉と敬遠されていたほどです。本人は当時、〈オレは三役でいい。横綱、大関になったら、後は辞めるだけでしょ〉なんて話していたが、その通りになってしまった」
淑惠夫人による訃報より。
・ 北尾光司さん妻淑惠さん「とてもピュアな人でした」(日刊スポーツ) – Yahoo!ニュース
▽北尾氏の夫人、北尾淑惠(よしえ)さん 北尾光司は6年間の闘病生活ののち、2月10日慢性腎不全のため、千葉県内の病院で他界いたしました。葬儀は生前からの本人の希望で娘と私だけの家族葬としました。何かと世間をお騒がせしましたが、主人は曲がったことが大嫌いな、とてもピュアな人でした。この場をお借りしまして、主人を応援してくださった皆様に厚く御礼申し上げます。
「何かと世間をお騒がせしましたが、主人は曲がったことが大嫌いな、とてもピュアな人でした」家族にとっては、最後にここは伝えておきたかったところなのかもしれない。
ご冥福をお祈りいたします。