生前に馬場が予言「かあちゃんと三沢がうまくいくはずがないだろう。厳しくて誰もついてこない」 馬場元子さん最強伝説が続々と
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23日にジャイアント馬場夫人、馬場元子さんの訃報が伝わった。
・ ジャイアント馬場夫人・元子さん死去 選手・関係者の母親のような存在で全日本プロレスを支える 選手らとの対立も プロレス・格闘技の情報配信|カクトウログ ブログ
続報を東スポから。
写真も東スポより
納骨は6月に予定されている。馬場家の墓に、馬場の遺骨とともに入る。馬場の気遣いにより、場所は元子さんの実父のお墓の隣り。
・ 死去・馬場元子さん 馬場さんの遺骨とともに納骨(東スポWeb) – Yahoo!ニュース
馬場さんは1999年1月31日に死去し、遺骨は長く自宅に保管されていた。「なぜお墓をつくらないのか」との声もあったが、実はある“約束”があったという。元子さんの実父で故伊藤悌(やすし)さんが85年に亡くなった際、明石市内の墓の前で号泣する元子さんに対し、馬場さんは「もう泣くなよ。お父さんのお墓の隣に馬場家のお墓を建てるから。そこに(お互いが亡くなったら)一緒に入ろう。そうすればユーは永遠にお父さんといられるだろ」と慰め、その後に墓を建立した。
6月に納骨式が行われ、百か日法要に合わせて7月に都内のホテルで「お別れ会」が行われる予定。代表取締役を務めていた馬場さんのグッズ販売や肖像権を扱う「ジャイアント・サービス」「ミスタービィ」などの会社は、最後まで看護にあたった元子さんのめいが中心となり親族が運営を継続する。全日本プロレスの事務所兼合宿所(神奈川・横浜市)はそのまま継続使用される模様だ。
(中略)
来年1月31日には「ジャイアント馬場没後20年追善イベント」を計画しており、それが病後の元子さんの支えとなっていた。志半ばで急逝したが、同イベントは親族が中心となり開催する意向だ。くしくも18日(日本時間19日)には馬場さんのライバルだった“人間発電所”ブルーノ・サンマルチノ氏(享年82)が亡くなったばかり。急ににぎやかになった天国で、馬場さんと元子さんは抱き合って再会を喜び合っているに違いない。
こちらでは和田京平レフェリーが秘話を明かす。
・ 元子さん追悼 全日本名誉レフェリー・和田京平氏が明かす「守れなかった馬場さんの遺言」(東スポWeb) – Yahoo!ニュース
99年1月31日に馬場さんは亡くなり、故三沢光晴さん(享年46)が後任の社長に就任。しかし元子さんと意見の衝突を繰り返し2000年6月に約30人もの選手、スタッフが大量離脱してノアを旗揚げした。その2年前、馬場さんは全日プロの未来を見通していたかのような“遺言”を残していた。俺が死んだら――馬場さんはそう切り出したという。
「『なあ京平、かあちゃんと三沢がうまくいくはずがないだろう。そうなったらお前、かあちゃんの側についてくれるか。あの性格じゃ厳しくて誰もついてこないと思うんだ』って。『分かりました』と答えるしかないよね。だから馬場さんが亡くなった時、心に誓った。『社長、元子さんは俺が一生、付き添いますから』って」
皮肉にもその言葉は現実となった。馬場さんの死後、和田氏はまるで黒子のように元子さんに付き添い続けた。海外旅行はもちろん国内の移動から、日常生活まで。自宅(東京・港区)の商店街で焼き芋を買い、渋谷区の元子さん宅まで届けることもあった。そして気丈さを改めて知る。
「馬場さんが(選手に)言えないことは、元子さんがハッキリ伝えていた。人に嫌われる覚悟ってそう簡単にできるもんじゃない。夫婦としては、あうんの呼吸だけど、そういう部分で元子さんは馬場さんより強かった。最強ですよ」
その気の強さが、和田氏を後悔させる件へ結びつく。昨年10月に元子さんは肝臓を患い、医師から「余命2週間」と宣告された。それ以後、和田氏との連絡をピシャリと絶ったのだ。
「弱ったところを見せたくなかったんでしょう。それはプロレスラーと一緒。俺が病院に行けば『京平、お願いだから家まで連れて帰って。もう病院は嫌』って言ってしまうのを自分で分かってたんじゃないかな。だから最期はごく近い親族のみで過ごされた。それはそれでいい。でも馬場さんに託された『うちのかあちゃんを最後まで頼む』って約束は守りたかった…」。そうつぶやくと和田氏は目を伏せた。
世界のジャイアント馬場が「あの性格じゃ厳しくて誰もついてこないと思うんだ」とし、三沢光晴らとの分裂を予言。和田レフェリーが「馬場さんが(選手に)言えないことは、元子さんがハッキリ伝えていた」と語り、元子さん最強伝説が続々と。余命2か月宣告後の姿勢でさえ「弱ったところを見せたくなかったんでしょう。それはプロレスラーと一緒」と和田レフェリーは振り返った。
元子さんと三沢らの分裂への流れはこちらに詳しい。
・ 馬場死去、三沢離脱……その後の全日本プロレス■小佐野景浩のプロレス歴史発見Dropkick『Dropkick』チャンネル(Dropkick編集部) – ニコニコチャンネルスポーツ
小佐野 変な話ね、あの年の初めから「三沢たちが全日本から独立するんだろうなあ」とは感じてて。それはどこのマスコミも感じていたと思うんだけど。記事にしたのは『週刊ファイト』だけだった。ほかはどこも書かなかった。
――それほど事態は風雲急を告げていたんですか。
小佐野 オーナーの馬場元子さんと三沢の仲がどうにもならないというよりも、あのときは三沢が社長としてやろうとすること、やったことに対して、元子さんはすべて否定する立場にあったから。「このままでは一緒にはやっていけないだろう」とみんな感じていたんです。
――元子さんは三沢さんの方針に否定的だったんですね。
小佐野 その伏線は馬場さんが生きていたときから張られてたんです。馬場さんが亡くなったのは99年1月だけど、98年5月2日に全日本が初めて東京ドームをやったんです。あの大会直後、長年の激闘により身体がボロボロだった三沢は長期欠場してるんだけど。8月に復帰するときに現場の全権を馬場さんから譲ってもらってるんですよ。というか、「ください」という話を馬場さんにしたんです。
――それは勇気のいる申し入れですね。
小佐野 馬場さんもやむを得ず三沢に譲った経緯があったんだけど。馬場さんが亡くなったのはそれから何ヵ月もなかった。そうなると元子さんには「あのときに三沢くんが全権を奪ったから、お父さんが気落ちして亡くなった」という感情が出てきてもおかしくないと思うんだよねぇ。
――変な話ですけど、もう少しだけ時が経つのを待てば……。
小佐野 馬場さんが亡くなってから三沢光晴が全権を握っていれば、元子さんとの仲はあそこまでこじれなかったかもしれない。だって三沢が全日本の社長に就いたとき、元子さんは社長室から馬場さんの持ち物をすべて出したはず。三沢には何一つ使わせていない。
――うわあ……元子さんはそういった感情ありきで三沢政権を見ちゃうんですねぇ。
小佐野 あくまで推測だけどね。三沢のやることなすこと気に食わなくなくて「それは馬場さんのやり方とは違う」となる。馬場さんがまだ生きていたときでも、三沢がトップになってからは選手の自己主張がオッケーになって、それまでとは違った流れが全日本に生まれたから。その時点で元子さんからすれば「三沢くんのやり方はおかしい」と思ったんじゃないかな。
(中略)
小佐野 ただ、全日本の内部にはそれ以外の問題も積み重なっていて「もう全日本にはいたくない」というスタッフや選手がいたんです。レフェリーの和田京平さんなんかに言わせると、東京ドームのあと休んでいた三沢のところにいろんな人が全日本のことで相談にくる。そこで三沢は義侠心にかられてしまって「馬場さんに言えるのは俺しかいない」となってしまったんじゃないか、と。
――三沢さんに野望があったわけじゃないと。
小佐野 三沢は決して自分がトップに立ちたくて動いたんじゃなくて、みんなの意見を聞き入れて馬場さんに物を言ってしまった。
タイミングの問題もあったが、馬場本人以上に馬場イズムを守ろうとしたのが元子さんだった。そして、守ろうとしたばかりに、日本プロレス界の2大潮流のうちの全日本が分裂したのだった。
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