ジャイアント馬場夫人・元子さん死去 選手・関係者の母親のような存在で全日本プロレスを支える 選手らとの対立も
23日にジャイアント馬場夫人、馬場元子さんの訃報が伝わった。
写真はデイリースポーツより
・ 故ジャイアント馬場さん夫人・元子さん死去(東スポWeb) – Yahoo!ニュース
“世界の16文”“東洋の巨人”として一時代を築いた不世出の名レスラー故ジャイアント馬場さん(享年61)の夫人で、元全日本プロレス社長の元子さんが14日に肝硬変のため、都内の施設で亡くなっていたことが22日、分かった。78歳だった。親族のみで19日に通夜、20日に告別式が営まれた。戒名は「顕徳院法栄妙元清大姉(けいとくいんほうえいみょうげんしょうたいし)」。
元子さんは昨年1月に東京・渋谷区の自宅で行われた「喜寿を祝う会」で元気な姿を見せたが、同年初夏から肝臓の病気が悪化して6月に都内の病院に入院。10月には「持ってあと2週間」と医師から告げられた。その後に驚異的な回復を遂げるも、肝臓の病気は施術のしようがないほど悪化し、定期的に腹水を抜く処置と投薬だけが続いていた。
以来、小康状態を保ち13日夜も元気に笑顔で話して夕食も取ったが、翌14日に容体が急変。同日午後9時9分に息を引き取った。
元子さんは1940年1月2日生まれ、兵庫・明石市出身。15歳の時に、キャンプのため、明石を訪れた当時プロ野球巨人軍の投手だった馬場さんと知り合った。66年に婚約して馬場さんがプロレスに転向した時も72年に全日本プロレスを旗揚げした際も裏方として馬場さんを支え、82年に結婚を公表した。
1999年1月31日に馬場さんが亡くなった後は故三沢光晴さん(享年46)を社長として再出発を図ったが、経営面の考えなどの食い違いにより、2000年に三沢さんらが大量離脱して「プロレスリング・ノア」を設立。団体は存亡の危機を迎えたが、同年7月に社長に就任するとミスタープロレス・天龍源一郎(68)の復帰、当時新日本プロレスのエースだった武藤敬司(55)らの移籍により、団体を蘇生させた。02年10月の日本武道館大会を最後に社長職を辞任してマット界から退いた。
14年7月に秋山準(48)が新社長に就任すると、相談役などを務め、翌年に辞任するまで秋山体制を支えた。元子さんの急逝により、またひとつ「昭和のプロレス」が幕を閉じた。
関係者との一定規模の交流があったのは2017年1月の「喜寿を祝う会」が最後のようだ。プロレス会場への来場は2016年10月、三条市の名誉市民に馬場が選ばれたタイミングでのものが最後となった。
・ 全日・秋山準社長 元子さん哀悼「感謝してもしきれない」(東スポWeb) – Yahoo!ニュース
最後に元子さんと顔を合わせたのは2016年10月の新潟・三条大会。馬場さんが同市の名誉市民に選定された際の受賞セレモニーに出席するため、元子さんが来場した。「うちの嫁は昨年1月の『喜寿を祝う会』をお手伝いしたんですけど、僕がお会いしたのはあの時が最後です。まさか、それが最後になるとは思いませんでした」。元子さんがプロレスの会場を訪れたのも、これが最後となった。
選手・関係者の母親のような存在で全日本プロレスを支える。2019年予定の“馬場没後20周年追善イベント”には残念ながら立ち会えないこととなった。
・ 全日プロ・和田京平名誉レフェリー 馬場夫妻は「本当のオヤジとオフクロ」(東スポWeb) – Yahoo!ニュース
来年1月31日には馬場さんの没後20周年追善イベントが計画されている。「もう皆が集まるしかないんじゃないかな。イベントでも興行でも、これから先、これ以上の大義名分はないですよ」と和田氏。全日プロの“番頭役”と呼ばれた名レフェリーは、もちろん真っ先に駆けつけるつもりだ。
・ 全日本プロレス所属選手ら哀悼の意 新日本参戦の鈴木軍・タイチ、金丸らも沈痛…(デイリースポーツ) – Yahoo!ニュース
全日本の所属選手たちもツイッターで哀悼の意を表した。大森隆男は「生前は大変お世話になりました。ここでは書き切れないくらい本当にお世話になった」と故人への思いをつづり、諏訪魔も「大変驚いています。ご冥福をお祈り致します」と記した。
新日本を主戦場にしている鈴木軍のメンバーも元子さんの死を悼んだ。元子社長時代の最後の新弟子であるタイチは「自分は厳しくされたが、デビューしたときには『やめないでよく頑張ったわね』と言ってもらえた。体が小さかったから、あえて厳しく育てたと思う」と寂しげな表情。金丸義信は馬場夫妻によく焼き肉に連れて行ってもらった思い出を明かしながら、「言葉がない」と沈痛な面持ちだった。
いわゆる馬場・猪木の時代でミセス・ババとして君臨。
・ グレート小鹿会長が元子さん追悼「日本のプロレス界の歴史をつくった人」(東スポWeb) – Yahoo!ニュース
「オイラが全日本に行った当時は人(選手)が増えている時期だったので、経営は苦しかったんじゃないかな。馬場さんが経営難で落ち込んでいる時に、元子さんが『天下の馬場さんがそれくらいのお金で何をクヨクヨしているの。それくらいのは私が出します!』とタンカを切ったという話を聞いたことがある。実家(兵庫・明石市)が裕福だったからね。それ以来、馬場さんは元子さんに頭が上がらなくなったんじゃないかな」
元子さんの実家は裕福な旧家で、小鹿会長は元子さんの父親・伊藤悌(やすし)さんとも交流があり、毎年暮れには故郷・函館から新巻鮭を送っていたという。
「力道山先生が日本にプロレスを創設され、やがて馬場、猪木の時代になった。その時代に『女帝』のような存在で、プロレス団体の運営のハンドルを握った。これは歴史的なことですよ。その後に似たようなケースも出てきましたが、スケールが違う。ある意味、日本のプロレス界の歴史をつくった人と言ってもいいかもしれない。すごい方でした…」と哀悼の意を表し、故人に最大級の賛辞を寄せた。
団体を守ろうとした一方で、選手・関係者との対立も。
・ 馬場元子 – Wikipedia
馬場夫妻が経営するジャイアント・サービスを通じてグッズ販売を独占し、全日本プロレスとは別会計で同社に入るようにしていた。そのため選手にロイヤリティは入らなかった。
1999年、ジャイアント馬場と死別。三沢光晴が後任社長となった新役員体制で全日本プロレス取締役となる。しかし、株式は元子が保有していたため、三沢は思ったように舵が取れず、改革を訴える三沢に対し、度々反発していた。
2000年、三沢以下社員40名以上が全日本を退社、プロレスリング・ノアを立ち上げ、元子は全日本プロレス代表取締役社長に就任する。この時全日本に残った選手は、川田利明と渕正信の日本人2人のほかはみな外国人選手で、天龍源一郎を復帰させるなど苦しいやりくりを強いられた。新日本プロレスとの対抗戦を経て武藤敬司が全日本に移籍、社長となったが、株式を元子が保有している状況は変わらなかった。
団体そのものの存続に危機感を抱いた和田京平らは、川田利明、渕正信、和田京平のプロパー3人の連名で「武藤社長への株式譲渡を求める。拒否された場合は全選手と社員で全日本プロレスを離脱する」という主旨の文書を元子に提出。その結果、全日本プロレスの株式85%を武藤に無償譲渡し、オーナーを退いた。
三沢光晴が選手を引き連れて2000年に離脱したことを象徴として、元子さんの強権ぶりはファンに伝わっていくこととなった。それだけ守るべきものを守るという信念は元子さんにもあったことでしょう。
今ごろは“没後20年”を前に馬場と再会。天国で笑顔となっているに違いありません。プロレス界への多大な貢献をありがとうございました。ご冥福をお祈りします。
>> 全日本プロレス公式