闘魂に憧れ、逸材を導いた小林邦昭 『虎ハンターの美学』著者インタビュー
1982年からの初代タイガーマスクとの抗争は語り草となり、その男はいつしか「虎ハンター」と呼ばれるようになった。雄弁過ぎるファイトの一方で、自らを語ることがほとんどなかった小林邦昭。2024年9月9日に亡くなったが、その2か月前まで取材にあたっていたのが鈴木健.txtさんだ。著書『虎ハンターの美学』について話を聞く。
(12月5日、カクトウログ取材)
佐山聡証言「本当のストロングスタイルをやったのは小林さんだけです」を解釈する
カクトウログ 小林邦昭さんの本を出すのは、どのような経緯からだったのでしょうか。
鈴木健.txt 本にも書いてあるんですが、もともとこの業界に入る前は小林邦昭さんのファンだったんで。やっぱり自分が書くとしたら(プロレスへの)入り口になった人を文献として残すのは、私より小林さんとつながりが強かった書き手の方々がいる中で使命といったらおこがましいですけど、自分でやるべきことだなと思ってました。プロレスラーの書籍を出したいという出版社さんとのやりとりの中で、僕の方から「小林さんはどうですか?」と打診し、実ったというのが経緯となります。小林さんの名前を出したら、もちろん初代タイガーマスク(佐山聡)のライバルだったという絶大な知名度もありますから「それでいきましょう」ってなったっていうのがスタートだったんですよね。
カク お亡くなりになる2か月前が最後の取材となりました。
鈴木 5回に及ぶ取材が終わってから2か月後っていうのは、体調を崩されていたとはいえ想定外でした。結果的にご本人に読んでもらうことができなかったっていうのは、思いとしてどうしても残ってしまいます。ただ、ご本人の話を聞けたのが叶ったということでもあります。取材ができなかったら絶対に書けなかったですし。週プロ在籍時もフリーになってからも、単独取材を一度もしたことがなかった僕が最後の最後でできたわけですから。
個々の関係者の証言集ではなく、取材ノートから生まれた『虎ハンターの美学』。同じく鈴木健.txtさんが手掛けた『髙山善廣評伝 ノーフィアー』と同じドキュメンタリー本となる。ファン歴問わず手に取ることで、プロレスを深掘りしていただきたい
[虎ハンターの美学 単行本(ソフトカバー) – 2025/10/21 小林 邦昭 (著), 鈴木健.txt (著)]

カク “初代タイガー誕生”以前に、先輩の小林さんと後輩の佐山さんにライバル関係があったことは知っているファンも多いと思います。ただ、小林さんにとって佐山さんが「雑用を一緒にこなす」「試合でも切磋琢磨する」という唯一の関係で、佐山さんがいないとレスラーをつづけていたかどうかわからなかったような存在だったことは初めて知りました。
鈴木 高校を中退して入ったんですが、10代じゃないですか。その年で大人の中に飛び込むって、プロレスの世界じゃなくてもそんなシチュエーションなんて絶対しんどい。そこに加えて厳しい練習、雑用があるわけじゃないですか。同期がいない、自分以外全員先輩というのが3年近く続くわけですよね、佐山さんが入ってくるまでは。佐山さんが入って来たことで日常の中にようやくフランクに話せる相手ができた。佐山さんが言うには先輩の中でも、小林さんは本当に先輩風を吹かせない、やさしい先輩として特別だったわけですよ。
カク なるほど。
鈴木 田園コロシアムに四輪自転車を2人で漕いでいったエピソードなんて、その後の黄金の虎vs.虎ハンターを思えばおとぎ話のようですよね。だから初代タイガーマスク誕生というものがなかったら、プロレス界でよくある、若手時代からのライバル同士、あるいは先輩後輩の…っていう物語を描けたはず。タイガーマスクになったことで、それが描けなくなった。それが運命的なものということになるんでしょうけど、ヤングライオン時代からの関係性を“抜き”にしてのライバルストーリーを2人で描くことになったという。
カク そうですね。
鈴木 あの時代だと、他にないんじゃないですかね。一方が「正体を隠す」ことによって、それまでのそのストーリー、物語性というのが描けない中で、それでもライバル関係を築いていくっていうのは。
カク 特異な。
鈴木 本当に特異な。見たかったですけどね、佐山さん(素顔)としての小林さんとのライバルストーリーというのも。
カク ただ関係性が下地にあったうえで、一方がスターになって「負けてなるか」となった。燃え上がるものはあったでしょうね。
鈴木 先に後輩の佐山聡がスーパースターになったっていうところが、またね。逆だったらもしかすると違ってたかもしれないし。普通に先輩の小林邦昭が先に海外に出て、先に凱旋帰国して先に団体の主力選手になっていたら全然違う物語になっていたでしょうから。あんまり後輩という感覚は小林さんの中にはなかったんでしょうけども、一緒に苦楽を共にしてきた人間があそこまでの巨大な存在になって、何も感じないわけがないわけで。
(小林が1956年1月11日生まれ。佐山が1957年11月27日生まれ。海外遠征は、佐山が1978~1981年。小林が1980~1982年)
カク 面倒見のいい同世代っていう面もあったし、かつ、プロレス感が似ているというか。格闘技志向の試合ができたっていうところですよね。
鈴木 対談の中で言ってましたよね。「本当のストロングスタイルをやったのは小林さんだけです(佐山)」って。あれはいろんな解釈の仕方があると思うんですけれど、ああいうふうに言ったってことは、佐山さんからすれば要は同じ志を持ってたっていうことだと思うんですね、小林さんがね。自分と同じ意志、志向を持っていたのは小林さんだけですっていうふうに言いたかったと思うんですよ。スタイルとか試合内容うんぬん以前に共鳴できるものがあったのは小林さんだけだったっていうのを、ああいう言い回しで言ったんじゃないかな…と僕は受け取ってるんですけれども。
カク 記載されているエピソードで言うと、佐山さんが「スパーリング中、小林さんのスリーパーで歯が折れた」と。小林さんは「佐山さんの蹴りをガードした腕が折れるんじゃないかと思った」と。それを第1試合の時代からやっていた。
鈴木 見たかったですけどね。そのときは僕はプロレスを見てなかったわけですけども。どういうことをやってたのかな…見てないだけにいろいろ想像は膨らみますよね。今回の本でシングル全成績を調べて、記録として載せましたけども、本当に地方の町や野外でやったかと思えば日本武道館、蔵前国技館、田園コロシアムでやるときもあるし、大阪府立体育会館や愛知県体育館でもやっている。本当に大きいところから小さいところまで小林邦昭vs.佐山聡っていうのは組まれていたんですよね。でも映像として世に出ていない。
カク 確かに。
鈴木 現存してるものは文字としての記録しかないわけで。見た人の追憶の中にしか残ってないものじゃないですか。メキシコでの試合もおそらく映像として残ってないですから、どんな感じでやってたんだろうなっていうのを、書きながらもどんどん想像が膨らんで。書いてて楽しかったのは特に、第1章、第2章だったんですよね。プロレスラーになる前からなった時の話と、あとメキシコ時代の話。今みたいに何でも情報として入ってくる時代じゃないから、メキシコ遠征時の詳しい情報もほぼないじゃないですか。それを清水勉さんにご協力いただいて、記録を確認していく中で本当に楽しくてですね。
カク どちらかというと、よく語られるのがあの前田日明と平田淳嗣(スーパー・ストロング・マシン)のライバル関係ですが、それは“次の世代”になるんですかね。
鈴木 小林さんたちが前です。前田さん、平田さんが入ってきたのはずっと後なんで。小林さんは藤原喜明さん、キラー・カーンさん、栗栖正伸さんの時代なんで。改めてその当時の道場の風景が今回わかりますし、当時のアントニオ猪木が他の選手たちにとってどういう存在だったのか、小林さんの目を通じての当時の新日本プロレスの光景も描くことができたとは思いますね。
カク グラウンドの技術を一時期、レスリングから入ってきた長州力が採り込んだとの記載もありました。
鈴木 それまで主ではなかったものでしょうからね、技術体系として。猪木さんご自身がカール・ゴッチさんの系譜で、サブミッション中心じゃないですか。実は長州さんの技術が入って来たのは大きいことだったんじゃないかなと。坂口征二さんが柔道からやって来て、他の格闘技や相撲からやって来た人もいた。そういう中でアマチュアレスリングにおけるフォールの技術が入ってきて、長州さん自身がそういう話を率先してはしない中でそれを実体験していた人、プレーヤー側の証言も聞けた。
猪木パネルへの回答 「僕はその『どうなんでしょうねえ』で十分だったんですよ」
カク 小林さん、佐山さんの話に戻ると、自分たちがストロングスタイルの形を、第1試合でつくっていた自負があったと。
鈴木 小林さんはめちゃくちゃ猪木さんのことを尊敬してるから、猪木さんが理想とするものをやんないと猪木さんに失礼というか、猪木さんに対する思い入れで「こういうプロレスをしなければ」っていうのが大きかったと思うんですよね。それに共鳴したのが当時の佐山さん。佐山さんも他の格闘技を採り入れるんだけれども、その源流にはアントニオ猪木がいるわけで。ストロングスタイルって、当時はもしかすると、そういう名称がまだ世に出てなかったかもしれない時代から、アントニオ猪木の闘いを体現するというのを若いころから2人はやっていたということですよね。それをちゃんと自覚した上でやってたんじゃないかな。「俺たちがこれをやるんだ」っていう。
カク 当時は猪木さんが第1試合、第2試合をちゃんと見てて、ふがいない試合をした選手は殴られていた。でも小林さん佐山さんは基本的に殴られたことがないと。
鈴木 言ってましたね。小林さんのその後のプロレススタイルからすれば、それほどガッチガチに「俺はストロングスタイルをやってるんだ」っていうのではなかったじゃないですか。ジュニアだし、ルチャの動きも見せるし立体的な技も使えるし。ストロングスタイルの体現者をその後に名乗ったわけじゃないのに、それができていたっていうのが小林さんなりの矜持であって。清水さんが本の中で言ってましたけど、小林さんは自分の実績をことさら自分から言うタイプではないと。周りが「えっ、そんなすごいことやってたんですか!?」っていうことも「ああ、なんかあったね」ぐらいで済ませてしまう方なんで。そこが小林邦昭という人間のらしい部分だったと。
カク はい。
鈴木 プロレスラーとしてそれがマイナスにならなかったのが小林邦昭なんだろうなって。そうやって自分が前面に出ることをヨシとしないのは、プロレスラーとすればマイナスになりかねないじゃないですか。そこに頼らずしてプロレスラーとしての自分を確立できた人だったんですよね。結果的に「虎ハンター」っていう最大級のタグができましたけども、自分の方からタグをつくろうとしたわけではない。タイガーマスクの好敵手となったから周りが「虎ハンター」と呼ぶようになった。誠心会館との抗争から「平成維震軍」っていうタグにつながった。自分で何かを印象づけるようなことをやったのは、最初の初代タイガーマスクを広島で襲撃したときぐらいなんですよね。けれどもやってきたこと全部の要素が小林さんには詰まってるじゃないですか。棚橋(弘至)さんも言ってましたけど他にマネはできないだろうと。そこはうなずけますよね。
カク 面倒見のよさ、人当たりのよさ。それとは別に、ストロングスタイルを守り、アントニオ猪木を尊敬するっていうところをトータルで持っている人物としての面白さがありますよね。それがどこかで時代を超えて棚橋弘至とつながって…。
鈴木 そうなんですよね。「小林さんはそんなに猪木信者だったのか!」っていう感じじゃないですか。ポロポロと聞いてはいましたけども、この本の軸となったのはアントニオ猪木だと思うんですよね。入門から、猪木さんのパネルを外す外さないというところまでつづくわけで。一生涯、アントニオ猪木と何らかの関連性があるんですけども、小林さんって現役時代にそれをほぼほぼ言ってなかったんですよね。もっと声高にそこをアピールすれば違う展開があったかもしれないのに、性格的なのか。それが自身の価値観なんでしょうけども、言わないんですよね。

カク 本の中で鈴木さんが、パネルを外したっていうこと自体が、棚橋弘至と小林邦昭の“合作”と表現していたじゃないですか。どっちが外したかは示唆こそすれ書いてないっていう、その着地点が絶妙だったなっていう気はしましたね。
鈴木 「それ、棚橋じゃなくて僕が外しましたよ」って小林さんが言ってたら、別の意味合いになっていたでしょうからね。あそこは“物事は曖昧にすることも味わい”みたいのが出ましたよね。何でもかんでも白黒はっきりさせるんじゃなく。あのときの小林さん、ちょっと困った顔をしたんですよね、僕が振ったときに。小林さん自身も、実際のところは自分が外したっていう情報が世の中に出てることはたぶん知ってるはずなんですよ。けど、自分の口からはそれを言わないっていうのが、まさに美意識、美学であって。
カク そう思います。
鈴木 これが事実だって周りが受け取ったんであれば、それはかまわないけれども、自分の口からはそれを言わないというふうにしたんですよね。僕はその「どうなんでしょうねえ」で十分だったんですよ。付随した話はしてくださっているんですが「はっきりさせてくれ」と僕は思わなかったんで。その言い回しがどういうふうに出るか…だったんですよ。そうしたらそういう言い回しで出たんで。「これこそまさに小林邦昭だな」と思って。
カク なるほど。
鈴木 それをそのあと棚橋さんに伝えたら、まあ喜んでましたね。「そういうふうに思ってくださっていたんだ」って(新日本プロレス道場を管理していた引退後の小林が、若き日の棚橋にとっての相談役にもなった)。
カク アントニオ猪木がIGFに出て、いわば新日本プロレスには泥をかけるというか、それがあったときに、むしろ棚橋弘至の方に肩入れしたわけですよね。
鈴木 そうなんです。それってなかなかできないじゃないですか。あそこまで心酔してるんですよ? ちょっとすごいですよね、それって。
カク 大きく言えば、パネル外しも“合作”だけど、新日本プロレスのV字回復が棚橋弘至と小林邦昭の“合作”なんじゃないかと思います。
鈴木 そこをこの本では強調したかったんです。その件(脱猪木路線)がなかったらV字回復を望めなかったかもしれないし。今の新日本プロレスになるうえですごく重要なんですよね、小林さんの存在っていうのは。それが今までそんなに語れてなかったので、それを文献にすることができたのは意義があったなと思いますよね。
カク 棚橋弘至のブランドもできたと思うんですよね。猪木パネルを外した男っていう。棚橋弘至のアウトラインづくりを結果的に手伝ったかなと。
鈴木 ある意味、棚橋弘至は導かれましたよね。自分の行動、考えに確信が持てたでしょうし。どういう信念でやるべきか、どの方向が正しいのかっていう、自分の中で答えが出たでしょうから。ただ、棚橋さんはその時点では、小林さんがそこまで猪木さんに心酔してたのは知らなかったそうなんです。知っていたら言わなかったかもしれないと。そこも巡り合わせですよね。知ってたら言えなかったって。言えなかったって言うとこがまた棚橋さんの小林さんに対する思いがうかがえる。
カク 小林さんと初代タイガーの攻防ではキックの応酬が見ごたえを生んでいましたが、海外遠征前に使っていたのは佐山さんのほうだけだったんですよね。
鈴木 そうでしょうね。小林さんはメキシコで身につけたと。東洋系の色が出るからと。入門前の経歴では「剛柔流空手出身」とされていたんですけど、通信教育だったというのもけっこう衝撃的でした。昔の新日本のパンフを見るとプロフィールに出てたんですけど、それが後年に載らなくなってどうしたんだろうと思って聞いたら、本人曰く通信教育だったって。逆に言うと、通信教育でやってた空手をタイガーマスクと渡り合うぐらいまで磨き上げたってところがすごいわけであって。
カク 蹴りの攻防という渡り合いがひとつの形をつくりました。
鈴木 蹴りはタイガーマスクの独壇場でしたからね。ダイナマイト・キッドやブラック・タイガーも好敵手ではあるけれども打撃に持ち込まれると太刀打ちができない。あのタイガーマスクと蹴りで渡り合おうとしたっていうのがね。もともと、お互いがブルース・リーに憧れてるっていう共通項があって、メキシコ時代に2人ともリンピオだったから対戦する機会が少なくて。けど2回ほど対戦したときにお互いがブルース・リーになったつもりで蹴り合ったらめちゃくちゃ沸いたのが、小林さんが生涯で一番思い出に残っている試合で。そういうところも素敵だなと思いますよね。史実的に大きな歴史として残ってる試合じゃないっていうのがね。
カク 確かに。
鈴木 同じ時代を生きた人間として文化が同じなんでしょうね。影響を受けたものであったり、面白いと思ったものであったり、見たものであったり。そういったものに共通項がたくさんあるから形や作品になるわけで。
カク 若手時代にやってた試合のベースもありつつ、グレードアップしたわけですよね。
鈴木 もちろん。ステージもグレードアップしましたからね。
カク 試合のクオリティを形成する技術も増えました。
鈴木 あとは虎のマスク(タイガー)とパンタロン(小林)というビジュアルは、本当にハマりましたよね。また違うビジュアルだと全然違うものになってたりするから。白黒のショートタイツにしたときもありましたけども、マーシャルアーツのパンタロンを導入したっていうセンスですよね。
パンタロンとともに白黒のショートタイツも記憶に残る。本書の裏表紙はあえて写真なし、白黒ショートタイツをイメージさせるデザインとなった

カク 鮮烈でした。
鈴木 パンタロンだから蹴りが映えるっていうのもありますし、僕が本で書いた通りフィッシャーマンズ・スープレックスにいったときに見栄えがするのは、やっぱりあの縦のラインがあるからっていうのもありますし。
カク 当時に初代タイガーと小林さん、藤波辰巳と長州力のライバル関係が勃発します。そのストーリーに猪木さんがどう絡んでいるかは誰にもわからないんだけれども、エピソードのひとつとして、小林さんがタイガーを襲撃したあと小林さんに…。
鈴木 「おまえ、やるじゃねぇか(猪木)」と。
カク この声かけっていうのはゾクゾクするものがありましたね。
鈴木 意外なほど猪木さんの中に小林邦昭の存在があったんだなと思いました。ヘビーとジュニアだからそんなに接点がない。心酔している小林さんにとっては嬉しかったでしょうし。
カク 地上波テレビの影響もあり、タイガーと敵対した小林邦昭が視聴者に嫌われていたという話はありました。ただ、それがどの程度かわからない中で、あの嫌われた国際軍団のラッシャー木村ばりに、長野の小林の実家に生卵が投げ込まれる嫌がらせがあったという。
鈴木 長野県の小諸って小さな町じゃないですか。その実家に卵を投げるってことは町の人か、もともと知っている人かしかあり得ない。何も接点がないファンが公開されていない実家の住所を突き止めるような時代じゃないから。近しい人さえ頭に来るようなことをやったってことがすごいところで。ブーイングで開放するような時代じゃないんで、もっと内に秘めた怒りなんですよね。そこまでいったのは、あの時代だと小林さんとラッシャー木村さんでしょうね。
カク 歴史の再確認というか。
鈴木 それだけタイガーマスクがとんでもなくスーパーヒーローだったということですよね。
伝われ虎ハンターの足跡 「ご家族と佐山さんと彰俊さん…小林さんへの思いが一冊になった」
カク 本としてはサブ的なところになるのかもしれませんが、反選手会同盟から平成維震軍の流れを俯瞰して読めるのは新鮮でした。
鈴木 スタートのドアの開け閉めあたりからけっこう語られていたことだったんで、新鮮味という点ではどうなのかなって僕は思ったんですよね。ただ出来事うんぬんよりも小林さんの中での平成維震軍に対する思い入れですね。あのとき1度目の癌になって、死というものが身近にきたときに、自分の気持ちを支えることができたのが平成維震軍の仲間たちとの関わり合いだってことを言ってて。あんまりそれは、今まで言ってこなかったと思うんで、そこを強く打ち出したいと思いまして。「平成維震軍によって僕は救われたんです」って言ったのは、取材していたときの体調を思うと本当に染みた言葉でした。あとは齋藤彰俊さんの小林さんに対する思い入れ。小林邦昭がいなかったら、その後の齋藤彰俊はないわけで。それもあって彰俊さんには、僕が聞き書きする形ではなくご自身の言葉で手記を書いていただいたんです。
カク あと本自体の味わいになっているのが、鈴木さんがファン時代にフィッシャーマンをスロー再生で見たとか。パンタロンを観察したり。なんだろうなこのワクワクする感覚っていう。
鈴木 ほう。
カク 今ってもう、試合は映像で確認しようと思ったらいつでも確認できるんだけど、そんなに掘り下げて確認しないじゃないですか。雑誌とか生中継を見るとか、すごい熱があったんじゃないかなって。
鈴木 あの時代はそうですよね。だってそれまでは繰り返し見れない時代ですからね。繰り返し見れなかったところに、ようやくビデオデッキができて、見れるようになったっていう喜びってなかったですよね。録画して後で見れるなんていうのは夢のような話だった時代で。やっぱり熱量も違いましたよね。
カク 当時だからこそ食らいついて「どうしてこうなんだろう」っていう探究心はすごい発達してましたよね。
鈴木 情報がないぶん自発的に動いて、その情報を得ようとするノメリコミ度がね。今のように黙っていても情報が目に入ってくるような時代じゃなかったんで、要するに狩りに行かなきゃいけないわけじゃないですか。1980年代のあのときが一番すごかったんじゃないですかね。そのあとに週刊プロレスが売れるようになってくると、専門誌で週イチのペースで情報を得られるようになりましたけど、まだ月刊だった時代ですから。そういう原体験があるから、これだけ何歳になっても昨日のことのように憶えてるし、思い入れとして持ち続けることができると思うんで。
カク おっしゃる通りです。毎週生中継っていうわけじゃなかったから、週刊プロレスになってからも「週プロの表紙が速報」っていう週があったわけです。
鈴木 情報が限られてましたね。だからこそ、その情報を得たときのね、ワクワク感がハンパなかったんですよね。
カク 今は便利になったかもしれないけど、そのワクワク感は。
鈴木 また違うものですし。いい時代だったなと思います。髙山善廣さんの本でも私自身の個人的なことは書かないように努めたんですけども、そのエピソードだけは共感できるものだと思ったんで、自分のことだけど書いたんです。あの時代の人たちは「そうだよなー」ってなると思ったんで。
カク そうだったんですね。
鈴木 小林邦昭っていうプロレスラーに対しての思い入れから、この本ってスタートしてるわけじゃないですか。自分エピソードを極力抑えることが、これまた大変なわけですよ。人間って好きなものを書くときほど、ちゃんと抑えないと、自分を通してのその人というフィルターがかかるし、けっきょく「私は、私は」ってなってしまって、本来の主役である小林邦昭さんが薄まっていっちゃうっていうのがあるから。それでも、これぐらいだったら大丈夫かなっていうのが、そのエピソード。それとあとがきだけですよね。
鈴木さんは高校在学時に小林邦昭ファンクラブにも所属。ファンの集いの打ち合わせで小林の自宅にてちゃんこをふるまわれるという経験も。小林が永眠してしまったことで、「あの日のファンです」と告白することは叶わなかった

カク 複数の本を同時期に手がけられて大変だったかと思います。
鈴木 髙山選手の支援本の取材・執筆と『有田哲平のプロレス噺【オマエ有田だろ!!】』の編集協力の3冊が重なったんです。小林さんがご生前のときに出すのが理想だったんですけども、とてもじゃないけど書けてなくて。小林さんが亡くなられて心が折れかけて1年ぐらい過ぎちゃったのは自分の至らなさしか残らないんですけども、ご家族の方が協力してくださって写真やプライベートにおけるエピソードを提供していただいたんです。まだ書き終えてないわけだから「出版しないでください」っていうこともできたと思うんですけども、そのままGOを出してくださって。出来上がった後に、次女の娘さんから、まったく面識もなかったんですがお礼のメッセージをいただいて。それを見たとき、小林さんご自身には読んでもらえずとも小林さんが読んでくれたうえでこういうふうに言ってくれてるのかなっていう感じになれたんですよね。形にできたのはやっぱりお二人の娘さんのご理解があったからこそなので、本当にそこはもうありがたかったですし。娘さんのお父さんに対する愛情によって成り立ったと思います。ご家族と佐山さんと彰俊さん、そういう人たちの小林さんに対する思いによって一冊になった。僕はそれをまとめただけにすぎないだろうなと思ってます。
カク 小林さんってどういう存在だったんだろうなって考え続けられる読後感があって。どうしても証言集みたいなものが流行るんでしょうけれど、ドキュメントとして読めるのでのめりこむことができました。
鈴木 髙山さんときもそうですよね。登場した人たちの思い入れによって一冊になった。僕はそれをまとめたにすぎないっていう感覚なんで。それを2025年に両方出せたっていうのは、本当にこの一年で人生における残りの幸運を使い果たしたなって僕は思ってるんです。あとは、著者として自分と「小林邦昭」の名が並んだ形で本を出せたことで感無量です。小林さん個人の書はこれが初めてであり、一人でも多くの方に読んでほしいと思います。
虎ハンターの美学 書籍情報/著者情報
[虎ハンターの美学 単行本(ソフトカバー) – 2025/10/21 小林 邦昭 (著), 鈴木健.txt (著)]
本当のストロングスタイルを
やったのは小林さんだけです
---初代タイガーマスク 佐山サトル
金曜8時にプロレスブームを巻き起こした時代のアイコン、初代タイガーマスク(佐山サトル)。小林邦昭はこのプロレス界最大のベビーフェイス、タイガーのマスクを剥いだ男として一夜にして大ヒールとなる。その後、長州力率いる維新軍に所属。タイガーマスクの引退と共に全日本プロレスに参戦。2代目タイガーマスク(三沢光晴)とも対戦。新日本プロレス復帰後も東京ドームで獣神ライガー(のちの獣神サンダーライガー)のデビュー戦の相手を務め、誠心会館との抗争を経て平成維震軍に参加するなど、中堅レスラーに甘んじず、昭和から平成まで自らの力でポジションを切り拓いてきた。
元『週刊プロレス』記者の鈴木健.txtが小林邦昭にプロレス前夜から選手時代、そして引退後の活動まで数々の名勝負やエピソード、様々な噂の真偽を聞いた。その取材ノートをベースに丹念な取材で寡黙な男・小林邦昭のレスラー人生をまとめあげた。
本書『虎ハンターの美学』は、追悼本ではありません。当初は、小林邦昭さんの証言のみでその足跡を検証し、一冊にする企画でした。
しかし取材を終えて2ヵ月も経たぬ2024年9月9日、小林さんは旅立たれました。本書をご本人にお届けすることなく、我々は突然の別れを迎えたのです。
その無念さは、言葉で連ねられるようなものではありません。それでも小林さんが遺した功績の数々、そしてその生き方を文献にし、後世まで伝える意義を思うと、最後に語った“肉声”をお蔵入りとするわけにはいかなかったのです。
小林さんが亡くなられた時、メディアを通じて本当に多くのゆかりある選手、関係者からその人柄をしのばせる秘話や思い出、そして飾らぬ気持ちが伝えられました。追悼本として出すのであれば、そうした声を集めるべきですが、それでは生前、ご本人が望んだ形とは違うものとなってしまう気がしました。
小林さんに読んでもらうことはかなわずとも、昭和の時代を熱狂させたタイガーマスクとの闘いや平成維震軍としての活躍、さらには引退後のエピソードにいたるまでをご本人の言葉をもとに綴ろう。そう決めました。
過去に初代タイガーマスクこと佐山聡さんに関する書は何冊も出されましたが、そのライバル・小林邦昭個人で一つの書となるのはこれが初めて。バイプレイヤーとしてのプロレスラー人生を歩み続けながら、主役に劣らぬ存在感をまとい、多くのファンの追憶の中で今なお息づく男の一生を、改めて心に刻んでいただきたく思います。
(著者・鈴木健.txt)
はじめに
写真で振り返る虎ハンター小林邦昭ヒストリー 写真提供:小林邦昭
巻頭対談~小林邦昭×初代タイガーマスク 佐山サトル
第1章 虎ハンター紀元前 生い立ち~新日本若手時代
第2章 メキシコ遠征で残した実績
第3章 タイガーマスクのライバルとして
第4章 ジャパンプロレス設立から全日本参戦
第5章 誠心会館との抗争から平成維震軍へ
第6章 佐山との再会 そしてダンディズムに殉じた引退
第7章 猪木のパネルを外した真相と思い
特別手記 齋藤彰俊「あなたとの出逢いは、自分の人生にとって『宝』でした。」
あとがきにかえて
【著者について】
小林 邦昭・・・1956年1月11日-2024年9月9日。1972年に新日本プロレスへ入門。1973年に栗栖正伸戦でプロデビュー。メキシコ武者修行を経て、1982年10月に赤いパンタロンコスチュームで凱旋帰国をはたして以降、当時絶大な人気を博していた初代タイガーマスクとのライバル抗争がスタート。試合ごとにタイガーのマスクを剥ぐ無法殺法で“虎ハンター”として、大きな注目を浴びる。1984年9月には、“維新軍団”長州力、マサ斎藤、キラー・カーン、アニマル浜口らと新日本プロレスを離脱して、ジャパンプロレス所属となり、全日本プロレスへ参戦。2代目タイガーマスクともライバル抗争を繰り広げた。1986年11月23日にヒロ斎藤を破って、第2代世界ジュニアヘビー級王者となる。1987年4月には、新日本プロレスにカムバック。8月20日両国国技館では、王座決定トーナメント決勝で髙田伸彦(現・延彦)を下し、第4代IWGPジュニアヘビー級王者となる。2000年4月21日後楽園ホールで行なわれた獣神サンダー・ライガー戦で引退。引退後は、新日本プロレス道場の管理人として知られ、後進の育成にあたっていた。
鈴木健.txt・・・1966年9月3日、福島県会津若松市生まれ、葛飾区西亀有出身。1988年より21年間『週刊プロレス』の編集記者から編集次長、2001年より週刊プロレスモバイル編集長を務め、2009年よりフリーとなりプロレス、音楽、演劇等の表現ジャンルについて執筆。プロレス中継では50団体以上の実況と解説を経験。ワニブックスウェブ「News Crunch」にてみちのくプロレスを題材とした小説『アンドレ・ザ・小学生』を執筆。著書に『プロレス きょうは何の日?』(河出書房新社)、『白と黒とハッピー~純烈物語』(扶桑社)、『純烈物語20-21』(同)、『髙山善廣評伝 ノーフィアー』(ワニブックス)がある。
鈴木健.txtブログ『KEN筆.txt』更新。「#小林邦昭 さんと『共著』として名が並ぶ喜び…そこにはあと二人の存在――『#虎ハンターの美学』本日発売」https://t.co/Bd92ywCMkH #njpw #新日本プロレス #タイガーマスク #齋藤彰俊 #棚橋弘至 #平成維震軍
— 鈴木健.txt/#TAKAYAMANIA #FightMasa (@yaroutxt) October 21, 2025














